12月は行事が多いよな。

まな板の上に乗せた巻寿司を包丁で切りながら、シンジはそんなことを考えていた。
先週4日はアスカの誕生日だった。24日はクリスマスイヴ、その次には年越しが待っている。
そして今日、8日はミサトの誕生日だったりする。
もっともシンジがその事を知ったのは一昨日のことだった。アスカの誕生パーティーは何日も前から大いに張り切っていたくせに、ミサトは何故か自身の誕生日の事については全く触れようとしなかったからだ。

シンジはちらりと後ろをかいま見た。茶の間から聞こえる賑やかな声。リツコや加持、それにトウジ、ケンスケ、委員長といった面々がテーブルを囲んで座っている。家の人間だけで良いのにというミサトの意見を強引に押し切ってアスカが招いたのだ。
そのアスカはといえば、テーブルの中央に鎮座している大きなバースデーケーキの上に立てられた、色とりどりの蝋燭に次々と火を灯している。嬉々としたその表情はまさに悪童のそれであり、仏頂面でそれを眺めているミサトの様子ともあいまって苦笑せざるをえないシンジだった。

「ほら、シンジも早く来なさいよ」

蝋燭に火を灯し終えたアスカが、すっくと立って手招きした。
はいはいと応じながら巻寿司を皿に載せて茶の間へと向かうシンジ。
皿をテーブルに置くと、部屋が急に暗転する。アスカが電気を消したのだ。ケーキの上で揺らめく無数の灯火が柔らかな光で皆の顔を暗闇に浮き立たせた。


はぁ〜っぴば〜すで〜とぅ〜ゆ〜♪はぁ〜っぴば〜すで〜とぅ〜ゆ〜♪


男性の比率が多いせいか、やや野太い歌声が部屋の中に響く。不謹慎な、とは言い過ぎにしてもどこか不真面目で不純な明るさを感じるのは気のせいではあるまい。
俎上の鯉とでもいうのか、どう形容してよいか分からぬ複雑な表情のミサトが印象的である。
そして歌が終わった。

「さぁミサト!グッと一息にロウソクを吹き消して」

ぐっとテーブルから身を乗り出すアスカ。ミサトは相変わらず無言のままロウソクの炎を見つめている。そのまま沈黙があたりを支配する。

…固唾をのんで見守る皆の視線に耐えかねたのか。ついにミサトが根をあげるように叫んだ。

「…あ〜もう。分かったわよ!」

こうなりゃもうヤケだわ。ミサトは膝立ちになってありったけの息を吸い込むと、ケーキの上で揺らめくロウソクの炎に向かって一気に吹きかけた。

ふーっ!

部屋が真っ暗になる。と同時に皆がやんやとはやし立てた。
30本のロウソクが、見事一息で吹き消されたのだった。



時は万物の上を等しく通過していく。あの戦いから、はや一年の月日が経とうとしていた頃のお話。




























「冬のノスタルヂア」





























………………。

流れる水の音にミサトは眼を覚ました。
重い瞼をゆっくりと開いて周囲を見渡すと、彼女の他には誰もいない。静まり返った室内に、台所で誰かが水道を使っているのか、水がさらさらと流れ落ちる心地よい音だけが響いてくる。

…そっか。ツブれて寝ちゃったのねあたし。

徐々にはっきりしてくる意識。たしかに今日はかなり呑んだ。人が集まって賑やかになるとつい調子に乗って飲み過ぎてしまう。悪い癖だった。

と、不意に顔をしかめる。
酒の残滓が頭をきつく締め付けると同時に、「もう若くない」という陳腐なセリフが急に実感を伴って襲ってきた。
たった一歳の違いでしかない。たぶん9歳と10歳に比べれば肉体的な変化など取るに足らぬほど小さなものであろう。
しかし29と30。この差はなによりまず精神的にこたえた。

やや憮然とした顔で立ち上がろうとして、腹にかけられていたブラウスをはねのける。
ブラウス?ふと気がついたミサトは身体をひねり、台所の方を覗き見た。少ししわの寄ったブルーグレーのシャツにズボンが彼女の目に映る。

手に取ったブラウスを見つめ、フッとひとつ息を吐きだしてミサトは立ち上がった。
やや心許ない足どりでゆっくりと台所に歩いていく。

背後に人の気配を感じて、彼が振り返った。

「なにやってるの」

「見て分からないか?」

後かたづけ。加持はにっこりと笑った。濡れた手が洗剤の白い泡にまみれている。

「そのままでも良かったのに」

寝癖のついた髪をかきあげながらミサトがなんとなしに言う。別に加持の事を客人だなどと思ってはいないが、さすがにこのまま彼をほっといて自分だけ寝るわけにもいかない。面倒くさかった。明日の朝で良いではないか。朝になったら…朝になったら?

「シンジ君が不憫に思えてね」

からからと笑う加持。何気ない冗談だが見事に核心を突かれてミサトはぐっと言葉に詰まった。

「…そういえば、みんなどうしたの」

ミサトは話題を切り替えた。

「子供達はみんな遅くならないうちに帰したよ。リっちゃんもさっき帰っていった」

「シンちゃんとアスカは?」

「もう寝かせた。手伝うって言ったけどな」

相変わらず仕事が細かいわね。ミサトは軽く肩をすくめた。
と、不意に肌寒さを感じて身震いする。酔いが醒めてきた為かいっそう強く感じられる。

「ねぇ、ちょっと寒くない?」

暖房つけてるの、と、両腕を抱えて小刻みに身体を揺らすミサトの姿に、加持はふとあることを思い出したようだ。

「そうそう。外見てみろ。…雪が降ってるんだ」

「ウソぉ?!」

力なく垂れていた両の瞼をいっぺんに開くと、ミサトは窓際に向かって一目散に駆け出した。
閉じられていたカーテンを勢い良く開き、窓にべったりと顔を張り付けて外を眺める。


…ああ。

ミサトは息を呑んだ。
街の明かりも既に消えて外は漆黒の闇。その昏い空から、粉雪の欠片がほのかに青白い光をまとって次々と舞い降りてくる。コンクリートでできたベランダの上には既にうっすらと雪が降り積もり、いつもの無機質な灰色を汚れない純白に染めかえていた。

夢幻的な光景に我を忘れて見入っているミサトの後ろ姿に、加持は子供のようだと苦笑しつつも彼女に歩み寄り、無造作に打ち捨てられていたブラウスを拾い上げると背中にそっとうちかけた。

「雪が見られるなんてね…」

肩口に手を遣りつつ、感動を露わにミサトが呟く。
憂鬱な気分もこの光景の前にはいっぺんに吹き飛んだようだ。

「…世界が元に戻りつつある。そういうことなんだろうな」

加持は窓越しに漆黒の空を見上げた。元の世界。四季のある世界。
生まれた時からいつ果てるとも知れぬとこしえの夏が世界を支配していた子供達とは違い、それこそが旧世紀の人間の実感というものだった。

「積もるかしら?」

「…さあ。しかしかなり早い時間から降っていたから。このまま降り続けば明日朝は一面真っ白になってるかもな」

「そうなるといいわね」

瞳をきらきらと輝かせて無邪気な光を放ちながら、ミサトが熱心に頷く。
しかしそんなミサトの幼い姿も今はとても自然であるべき姿の様に思えた。

…ああ。積もるといいな。

加持が頷く。そのまま二人は静かに窓の外の光景に見入った。しんしんと降り積もる雪は何故かしら彼らにとって郷愁-ノスタルヂア-を感じさせるものらしい。
窓際にたたずむ二人の男女は、いま十数年の時を遡行して少年と少女の時代へと還っていた。


「あたしね」


心地よい沈黙が不意に途切れる。

…小さい頃のことなんだけど。ミサトは小さく笑った。

雪の降った朝っていうのが、すごく好きだったの。
夜、雪が降ってると、明日の朝積もってますようにってベッドの中でどきどきしてた。
そして次の朝、眠りから覚めたら、あたり一面が真っ白なの。
雲一つなく晴れあがった青い空の下で、白い粉雪に覆われた街が太陽の光を反射してきらきら輝いてた。それがまるで…

「まるで、世界が新しく生まれかわったみたいだと思ったの」

窓の向こう、彼方の闇に遠く視線を向けながら、ミサトはぽつぽつと言葉を紡いでいく。

「でも」

…でも。
鮮やかな思い出に彩られたミサトの言葉がそこで途切れる。それとともに二人の心の糸車は再び現在(いま)へと巡り還ってきた。けして悲しみではない。寂しさでもない。そこにはただ空しさだけが窓越しに伝わる凛とした冷たさとともに存在していた。

「父の仇と思って戦ってきた使徒も、もういないし。この新しい世界で、いったいあたしは何をしていけばいいのかしらね…」

彼女はそっと窓に額を寄せた。静かな吐息が冷たいガラスを白く濁らせる。

「…俺も同じだ」

それまで閉ざされていた加持の口が開いた。

…俺は、知りたかった。
地位じゃない。名誉でもない。ただ全ての真相を知りたかったんだ。
セカンドインパクト、ゼーレ、使徒、アダム、エヴァ。そして、人類補完計画。
秘密を知るためには、どんなことでもするつもりだっだし、現にそうしてきた。
命もべつに惜しいとは思わなかった。
だが、みんな碇司令が両手で抱え込んであの世へ持って行ってしまった今となっては…

「後に残ったのは夢破れた30がらみの男一匹というわけだ」

何やってんだろうな俺。加持は笑った。しかしこの男にしては珍しく訥々とした口調が、何より雄弁に彼の真実の想いを語っていた。少なくともミサトはそう思った。


「…はじめてね」

「なにが?」

唐突なミサトの言葉に、加持は怪訝な視線を彼女に向けた。

「あんたの口から嘘偽りのない本音を聞けたのって、これがはじめてだってこと」

ミサトは悪戯っぽい眼で加持を見上げた。
あっ、という顔。声にならない驚き。彼女の言葉は彼の喉元に達したようだった。

「…非道いな。嘘偽りは無いだろ」

せめて韜晦と言ってくれ。力無く加持は笑った。
それにつられてミサトも笑う。そうすると空っぽだった腹の中にあたたかな力が満ちてくるようで、いつしか二人は大きな声をあげて笑いあっていた。

「そっか」

…お互い、これから何もする事がないんだ。

ひとしきり笑った後、ミサトがぽつりと言った。乾いたタオルにくるまれたような暖かさを肌に感じた。
けして淋しさを癒やすためのつながりを求めているのではない。かといって安らぎと幸せを創り出そうといっているわけでもない。
同じ音色で響きあう魂が、今、この場所にふたつ在る。
ただそのことだけを彼女の言葉は簡潔に表していた。

「…そうみたいだな」


葛城。


彼は彼女の名を呼ぶと、そっとその肩に手を回した。
いままで何度躯を重ねていても、これほどまでに手が震えた事はないと思った。

「なに?」

ミサトの肩が一瞬ぴくりと震え、やがて静かに身をまかせた。

「提案があるんだけどな。これからの事について…」

「ええ。聞きましょうか?」

悪戯っぽい笑みを浮かべたミサト。その瞳には内からこみ上げてくる感情が押さえきれずに溢れていた。

二人の影がゆっくりと重なると、窓辺から洩れる光が消えた。
雪はさらにその勢いを増している。明け方にはきっと第三新東京一面を白銀の世界へと変えることだろう。







挿絵



























「…また、アスカに邪魔されるかもよ」

「かまわないさ」

(おわり)


<あとがき>
こんにちは。Katsu@月刊少年Rです。
思えば鳩矢さんから投稿の依頼があったのが10月下旬(!)一ヶ月以上も待たせたあげくがコレかと言われると言い訳のしようもありませんが、楽しんで戴けたなら幸いです。
ちなみに最期のセリフだけ補足しときますと、貞本版のパロです。単行本未収録部分なので、読んでない方ごめんなさい(^_^;
それと…そうそう。ノスタルヂア…Nostalgiaなのでノスタル「ジ」アが本当ですね。語感が好きなのでこうしました(笑)

それでは。また次の作品でお会いしましょう。


12月5日。雪には未だ早く、雨のそぼ降る栃木の片田舎にて。



Katsuさん、本当にありがとうございました。
挿絵がイメージを壊していないといいのですが…。(鳩矢 豆七)

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