TETSU(前編)

 

山の斜面苦には葛の葉が鬱蒼と覆い、その上から道路をトンネルのように伸びる

名も分からない広葉樹の茂みからは相変わらず蝉時雨が降り注ぐ。

来春高校受験を控えた鉄丸は、1学期が終わった解放感から帰り道の足取りも軽かった。

が、今日はどういう訳か、南側の海から吹き付ける風もなく、その癖日ざしは

相変わらずなので、暑さにただ目を細めた。

うだるよう、というのはこういうことを言うのだろうか。

半袖の白いワイシャツは裾丈が標準よりうんと短く、ズボンから出すことを前提と

したデザインにしてある。

ボタンを外して開いた胸元からからは、汗で色の濃くなったシャツが覗く。

大きなダンプカーが数台、砂利か何かを載せて通り過ぎた。

 

どうも今日は一緒に級友と帰る心境にはなれなかった。

元々あまり集団行動というものが好きな方ではなかったが、自分でもそれが

何故かは分からなかった。

生まれ持っての気紛れがそうさせるのだろう。

それからようやくのことで自宅に戻ると、放し飼いの鶏が寄ってこないうちに

さっさと玄関に駆け込み、それからクーラーをオンにしてからシャワーで

汗を流すことにした。

上のシャツ類と黒い学生ズボン、それから細かい格子柄の前空きトランクスを

洗濯機に放り込むと、蛇口を捻る。

この季節は別に、ボイラーのスイッチを入れなくても水道水は肌には充分に

優しいぬるさになっているから都合がいい。

頭上からザアッ、と勢いよく水滴が鉄丸の全身を包んだ。

石鹸で全身をゴシゴシ洗う。

 

西野鉄丸、14才。

部活動には入ってない。

成績は中の下、得意科目は体育と国語、苦手科目は英語と美術。

高校はまだ決めてないが、まあ地元の公立でいいかとあまりこだわるつもりはない。

コンプレックスに感じているのは、159cmと年齢にしては低く、そして付き過ぎた

筋肉のせいで余計短躯に見える体格だ。

半袖のシャツの線ではっきりと白黒に分かれた日焼けの仕方もちょっと気に入らない。

それからちょっとは不良で鳴らしてはいるが、異性体験というものがないのが

本人の中ではたまらなく嫌なことらしい。

もっとも、そんなことなど考えもしないクラスの優等生やオタク系との

温度差も一応は理解している。

ただ、それでも自分の中では恥ずかしいことだとはっきりと認識していた。

趣味は格闘技観戦。

一応中学で柔道を数時間、授業ではやったがこれでもいいかなと思っている。

が、種目については余りこだわっていない。

テレビでK-1をやっていれば見るし、深夜まで起きていてプロレスをやっていれば

一応はチャンネルを合わせる。

野球も好きだしバスケやサッカーもやるが、卓球だけはちょっと性に合わない。

 

石鹸の泡を流す水流、脱衣所で毛足の長いバスタオルで全身を拭くと、肌から

弾かれた全身の水玉はすぐに吸い取られた。

それから全裸のまま、クーラーの効いた座敷でパンツを探す。

小学4年の弟、力丸も今さら兄の全裸に驚くこともない。

「ん、あったあった」

手探りに見つけてそれからアンダーシャツも見つけると、それ以上着込むことはしない。

それから冷蔵庫から取り出した麦茶のボトルをごくごくと口飲みすると、

力丸の足下にあった漫画雑誌をもう一度パラパラとめくる。

「あー、退屈」

「素麺、作ってあっから」

「お、サンキュ。それ食うわ」

どうせ親が帰って来ても通知表のことであれやこれや言われるのは分かっているので、

そのまま繁華街にでもバックレようか、そんなことを考えていた。

誰か他にツレでも呼ぼうかな、といつもなら思うことだが、たまには一人の行動を

気侭に楽しみたいと考えてやめた。

そして制汗スプレーを上半身に吹き付けると、軽く昼食を済ませてから、

ヒョイと自転車で数十分の市街地に向かった。

 

あてもなく彷徨う数時間。

ゲームセンターにしてもそうそう軍資金があるわけでもなく、そこからコンビニに

本屋と時間を潰しているうちにすっかり日没になってくる。

この不況、金さえあれば友人達とカラオケボックスなんていうことも楽しいが、

そうそう贅沢もできない。

さっきまであんなに明るかったのに、と思いつつ、もう一回ゲームセンターに。

パンチ力測定機、グローブをギュッと握って出した平均スコアは148kg、

まあまあいつもの調子にはなっているだろう。

 

「随分元気がいいねぇ、何かやってんの?」

と、そこに愛想のよい笑顔の親父が立っている。

怪訝そうな顔をしている鉄丸に、

「いやいや、そんな恐い顔しなくていいじゃない。いやね、もっと面白い

遊び場あるんだけど、興味ない?あー、別に車に乗れとかそういう事は言わんよ」

「へぇ。まあ、どんなもんかは外で聞こうか」

「それなら話が早いね」

鉄丸はそれも一興かと、口元を緩めて男と店を出た。

 

「ボクシング?」

鉄丸は意外な単語を投げかけられてポカンとしていた。

「そう、見たとこ喧嘩とか強そうだし、どうなの?」

「えー、そりゃ俺、物心ついてからは負けたことねぇけど」

「そうなんだ、今、中学の1年………いや、おっきいから2年かな?」

「………3年だよ」

やっぱりそう見えるか、という鉄丸と、軽くしまったという男の表情が交錯する。

「まあいいや、どう、やってみない?」

「何かと思えば、ボクシングジムの勧誘っすか、いやぁ、俺はどうも、

こんな遠くに通うのはね。定時に通うとこは学校だけで精一杯で」

実際、束縛を嫌う鉄丸はどうも部活動や塾なんていうものは避けてきたし、

スポーツは好きなものの、地域の野球もサッカーもチームに参加しないままだ。

そこに来て、まあやんちゃを重ねていればすぐに、スポーツで更正を、なんていう

オメデタイ発想を未だにする大人もいて、強引に誘うときている。

そんな理屈、最近の大学の運動部を見れば神話に過ぎないのは中学生でも分かる話だ。

大体、親の期待がとか、偏差値教育がとか、書籍やゲームなんかがとか、勝手に

こういう素行不良の原因を決めつけられるのも気分が悪い。

 

自分は社会道徳なんていうものは、最低限のラインさえ守っていれば後はとやかく

言われたくもないし、さっき話したような手合いの良い子ちゃんたちの持つ世界観は

閉塞感で息が詰まりそうでとても共有できないのだ。

かといって、したり顔で

「お前らみたいに家と塾と学校を往復するだけの青春など無価値」

と優越感に浸るような幼稚なこともしたくない。

まあ、好きにさせて欲しい。

だからタバコは吸いたくないから吸わないし、酒は飲みたいからたまに飲む。

クスリは親が一応は医者だからそこらへんのことは理解しててやらない。

そういうスタイル。

決して典型的なパターンを踏襲するつもりもない。

 

「悪いっすけど、俺、更正とかそういうのはイイんで。一応、高校も行くし、

卒業したらキチッと働くつもりはあるから…………」

そう断るのを慌てて遮るように、

「いやいや、早合点は困るな。そうじゃないんだ、いきなり試合なんだ」

「へ?」

尚のこと意図が分からない。

確かアマチュアでも、試合をやるには年齢制限があったような。

それから男は辺りに人がいないことを確認すると、

「地下だよ、地下。中学生とか小学生なんかを集めて、賭けでやってるのさ」

「……………マジかよ」

未だそれが信じられないまんまだったが、ちょっと興味も捨て切れない。

「ついて来な」

 

鉄丸は言われるままに、雑居ビルの地下に連れられた。

 

「あっ!!」

観客席、といっても中学の教室よりちょっと広いぐらいのスペースの中央にリングがあり、

そこにパイプ椅子を周囲に配列した試合会場。

そこには小学生ぐらいの少年たちがヘッドギアもなしに殴り合っている。

一方は既に涙目で、それを執拗に相手の少年が責めあげる。

「…………すげぇ」

 

ボカッ……………!!

 

テンプルに一撃、ダウンと同時にゴングが鳴って試合終了。

あちこちで、「やった!!」などと言葉が飛び交う。

あちこちで現金を配布する係員が見えた。

 

「どうだい、これが地下試合。結果を観客が賭けんだ………興奮するだろ?」

鉄丸は無言で頷いた。

「そうこなくっちゃ男じゃねぇよな」

話がついたところで控え室、さっきKO負けを宣告された少年が、

両脇を抱えられた状態で長椅子に寝かされる。

荒い息のまま、腫れた瞼からはうっすらと涙とも汗とも思えるものが

光っている。

「………………」

さすがにそういうところを間近で見せられるとテンションが下がるが、

「どっち見てるんだ、鉄丸」

「えっ、ああ…………」

それから男は鉄丸にボクシングのルールの理解度がどれぐらいか幾つか

質問すると、

「うん、基本的なところはみんなよく分かってるようだな」

「あ、はぁ………」

基本的にはプロボクシングのルール、後は観客の問題だという説明を受けてから、

着替えるように指示された。

私服から着替える鉄丸、男が横に立っているまま全裸になるのには若干抵抗が

あったが、そのまま黒いサテン地のトランクスに履き替える。

幸い、下の毛がまだ生えていないことを指摘されることもなかった。

自分の中では童顔や身長の低さと同様に気にしていることではあるのだ。

修学旅行をどうしよう、と考えてすらいる。

それからリングシューズの紐を結んで、バンテージを指に巻いていくに従い、

徐々に自分の中の何かが燃え上がるのを感じた。

男の方も、さっきまで例の少年を見て下がっていたテンションが元に回復したのを

感じ取ってニヤニヤ笑いかける。

「……………何だよ」

「いや、なかなかイイ面構えになってきたなって思ってね」

「………………」

それからグローブを装着、プロと違ってテープで固定はなどはしないようだ。

やはりヘッドギアはさせないようだ。

「いい感じじゃない、ちょっと鏡の前に立ってみてよ」

初めて見る自分の勇姿、鉄丸は無言のまま、軽く全身が震撼するのを感じた。

「武者震いとは上等だな」

「……………おう」

 

ここまで来たらもう後戻りができない、と鉄丸は心拍数や体温がじわじわ

上昇をしていくのを感じた。

「じゃあ、ちょっと鏡の前でシャドーとかしてみせて」

「えっ、これから?」

「ああ」

それから鉄丸はそれに従い、普段の喧嘩の応用のようにしてみせる。

幅の広い鏡の前で、鉄丸はちょっと気恥ずかしかったが、それでもやってみると、

何だか普段より更に強い自分であるかのように見えた。

 

それから例の会場へと続く通路を歩く。

男もあしたのジョーの丹下段平のように、首からタオルを下げて隣に

並んで歩く。

「対戦相手は?」

「同じ中学生、って感じかな」

「へぇ」

緊張しているのは自覚していた。

少しでも今日の対戦相手のことを知りたかった。

これから相手にするのはゲームや空想ではなく、生身の人間なのだ。

そういう実感が一歩一歩踏み出すごとに増していく。

パイプ椅子の間の通路を通ると、既に観客たちの品定めのための視線が

容赦なく絡み付いてくる。

ボクサーにしては厚い胸板と太い二の腕。

腹筋は微妙に割れていないものの、がっしり体型から鍛えてあることは

容易に推測できる。

半袖シャツの形に日焼けした肌は本当は白いというのも明らかだ。

中にフラッシュが数回焚かれる。

ガウンを着させないのはこうした肉体観察をさせるためのようだ。

 

(続く)

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