Die Liebe――愛、それぞれの形
「――ちょっとそれどういうことよ?」
「今説明した通りさ」
「あなただって彼女のデータ持ってるんでしょ? どうしてそんなトラウマに触れるようなことをしたの?」
「彼女だって遅かれ早かれ戦わなきゃならない。それがたまたま今だっただけだ」
「詭弁よ」
「じゃあ、彼女と寝れば良かったのかい? 彼女は本当は俺のことを愛してなんかない。愛がないのに寝るのは、今の彼女には無理だよ」
「そうね。今寝たらあの子あなたから離れられなくなるでしょうね」
(昔の私と一緒で)
「でも、あなたも変わってないわね」
「何が?」
「そうやって責任逃れをするところ。彼女があなたを本当に愛しているかいないかなんて、多分彼女本人にだって分からないでしょうに」
「彼女が俺に本気で惚れていて欲しいのかい?」
「いいえ。あなたに本気になったら、壊れるのは女の方よ。決して愛さない男と愛してしまった女、負けるのがどっちかなんて目に見えてるもの」
「相変わらず素直じゃないな。彼女に嫉妬してるって素直に言ったらどうだい? そしたら、彼女にしたのよりもっと凄いキスを、君に贈るよ」
「結構よ。とにかく彼女のことはなんとかするわ。あなたはこれ以上彼女を刺激しないようにしてちょうだい」
「了解。葛城三佐」
受話器を置くと、何とも言えない重苦しい思いに取り憑かれてミサトは額を押さえた。
「相変わらず大変ね、『お母さん』」
「茶化さないで」
パソコンの前に座ったリツコは涼しい顔でキーボードを叩いている。
「惣流・キョウコ・ツエッペリン、か……」
パソコンのディスプレイに顔写真が大きく映し出された。聡明さと勝ち気さが融合した美しい女性だ。
「似てるわね」
「そうね、アスカそっくりだわ」
ミサトもディスプレイをのぞき込んで相槌を打つ。
「――あなたにもね」
「え?」
不意をつかれて、ミサトはリツコの顔をのぞき込もうとしたが、リツコはディスプレイから目を離さない。
「あなたと同じ、どこか淋しそうな眼をしてる」
「淋しそう、か」
ミサトはリツコに背を向けてコーヒーの入ったマグカップを口元に運んだ。
「淋しい」という感情を、人はいつから覚えるのだろう? 誰かと一緒にいれば淋しくなくなるのだろうか? そうとも限らない。
加持と過ごした月日。1週間も飽きずに睦み合った頃もあった。加持は優しく、激しくミサトを扱ってくれた。けれども、心の底から満たされていたわけではない。加持は時たまどこか遠くを見ていた。しかし、そのことを指摘されると、
「君のことを考えてるんだよ」と言ってミサトを抱きしめたものだ。
軽口でごまかしてもミサトには分かった。ミサトの肩越しに加持は何を見ていたのだろう。ミサトにはその度抱き返すことしかできなかった。それは、別れるときまで変わらなかった。
一緒にいればいるほど淋しくなる相手だっている。にもかかわらず、その相手を愛していたら――。
「泥沼ね」
ミサトの呟きに、リツコは小さく頷いた。ミサトが何を言わんとしているのか分かったのか、それとも何か自分に思い当たることがあったのか、それは分からない。
「とにかく何とかしないとね」
マグカップを置いて、ミサトは大きく伸びをした。
ヒカリは台所で人参を切りながらも、2階のアスカのことが気になって仕方がなかった。電話も無しでいきなりやってきて、ヒカリの部屋に入るとすぐに体育座りでうずくまってしまった。声をかけるのも憚られるような雰囲気を放つアスカを、ヒカリはそっとしておくことにした。何があったかは分からないが、今はアスカの好きにさせておこう、そう思った。
(やっぱり先週のことが関係してるのかな)
先週の日曜日に、ヒカリはアスカに誘われてショッピングに行った。その時のアスカはどうもいつもと違っていた。ランジェリーショップに釘付けになったまま1時間も動こうとしなかった。ヒカリに向かって下着を何枚も見せては「これどう? それともこっちのほうがいいかな?」と問いかけ続けた。ヒカリは年頃の少女としてショッピングは好きだったが、それでも最後の頃にはちょっと辟易するほどだった。アスカはそんなヒカリに気づかなかったようだ。ヒカリにはそれが意外だった。一見そうは見えないが、アスカは人の感情には敏感な質だ。シンジやトウジ、ケンスケには見せないが、ヒカリと一緒の時はそれがよく分かった。その時のアスカは、心ここにあらずという様子でヒカリを引っ張り回した。
ようやく買い物が済んで、ファーストフードで一息ついて初めて、
「ヒカリ、今日はゴメンね。引っ張り回しちゃって」と言ってきた。
「ううん、それはいいの。でも……どうしたの?」
「うん、ちょっとね、大事なことだから」
答えをぼかすと、アスカは摘んだポテトを口に入れた。ヒカリもそれ以上追求せず、ストロベリーシェイクを吸い込んだ。
「……ねえ、ヒカリ」
「なあに?」
「あの単純馬鹿のどこがいいの?」
ヒカリの顔が一瞬で紅潮した。「あの単純馬鹿」が誰のことを指しているのか分からないほど鈍くはなかった。
「ど、どこって……それは、全部、か、な……」
最後の方は聞き取れないほどの小声になっていたが、アスカは聞き逃さなかった。聞いた途端、手からポテトが落下した。
「……よくそんなことが言えるわね」
「アスカが聞いてきたんじゃない」
多少の非難を込めてアスカを見る。
「じゃあ、もしも、あいつが他の女のことを好きだったらどうするの? それでも全部なんて言い切れる?」
一転して、斬りつけるような真剣な口調でアスカはヒカリを問いつめる。
ヒカリは眉根を寄せて、何とも切なそうな表情をした。
「そりゃあ、私のことを好きになって欲しい。でも……しょうがないじゃない。もし、他の人を好きでも、それも彼だもの。彼が好きになるような人なら、きっと素敵な人なんだって、そう思う」
「何それっ。欺瞞じゃない! 自己憐憫よ! そんなこと言ってる暇があったら、彼を振り向かせる努力をした方がいいじゃないの!」
いきり立つアスカに、ヒカリは口元だけ小さく微笑みかけた。どこか哀しげに。
「努力だけじゃどうしようもないことだってあるもの。それに――」
「彼は私のために存在するんじゃないんだもの」
ヒカリのその言葉がアスカの身体に重くのしかかっていた。あのときは聞き流した言葉が、今になって心にまとわりついて離れない。
アスカは薄暗くなった部屋の中で明かりもつけずに、ヒカリのベッドに寄りかかって虚空を見上げていた。頭の中では、加持とのやりとりが何回も繰り返されている。
どうして、あんなことになってしまったのだろう。本当は、どうしたかったのだろう。何一つしたいようにできなかったような気がする。
(でも、ひとつだけ)
加持とのキス。それだけは後悔していない。初めてのディープキス。身体が甘く揺さぶられるような、くちづけ。
しかし、その為に払った代価はあまりにも大きすぎた。記憶の大波がアスカに襲いかかった。加持の前でさらした醜態。どれを取ってもいいことはない。
(加持さんが私を受け入れてくれていたら、あんなことにはならなかった)
だが、加持はアスカを受け入れなかった。
(ミサト。あの女がいるから)
アスカは再び膝の間に顔を埋めた。悔しさがこみ上げる。
(どうして私じゃなくて、あの女なの)
男に色気を振りまく、料理もろくにできない、大酒呑みの酔っぱらい。確かに仕事はそれなりにできるようだけど、それだけの女。身体と仕草で男をたぶらかす淫乱。「彼が好きになるような人なら、きっと素敵な人」? 冗談じゃない。加持さんは騙されている。もうずっと何年も。
(――何年も?)
何年も中身のない女に騙されるような男なのか、加持は?
こんな風に考えたのは初めてだった。今まではただミサトの存在がうっとうしくて仕方がなかった。ミサトと自分の扱い方の違いに腹を立てたり、イライラしたりしていた。加持にとってミサトが特別な存在であることが認められなかった。
今だって、認めたくなんかない。だが、認めざるを得ないことがほんの少し分かってきた。
(でも、あんな女のどこがいいのよ)
結局思いはそこに戻ってきてしまう。
男は結局、スタイルのいい若い可愛い女を選ぶのか。アスカの父がそうであったように。
アスカの父は妻が死ぬとすぐに新しい妻を迎えた。前妻の主治医だった女性だった。
(ママが生きているうちから、あの2人は付き合っていた)
どうしてそんなことができるの? 素朴な疑問は、子供っぽい思いとして口に出されないままだった。そんなことを口にしたら、あの2人はきっとうろたえて、アスカを叱りつけるだろう。「なんてことを言うんだ。先生とお父さんはママのために話し合いをして、お互い分かり合っているんだ」と。
嘘つき。ママのためなんかじゃない。アスカの目はしっかり2人の関係を読み取っていた。
しかし、病室で人形に向かって「アスカちゃん」と呼びかけている母親。彼女の目にはもはや夫と主治医の関係は見えない。
(私はあんな風にはならない。私だけを見つめてくれる人と一緒に、自分の力で生きていく)
だが、「私だけを見つめてくれる人」がいない。そうして欲しい人は他の女を見つめている。
(どんな女なんだろう、加持さんが見ている女は)
こんな風に考えたこともなかった。一緒に住み始めてから、ミサトのことはいろいろ知ってきた。恋敵だけあって観察は執拗かつ辛辣だった。だから、欠点ばかり見ていたような気がする。
(葛城ミサト……)
控えめにドアがノックされた。ドアの向こうからヒカリの声がした。
「アスカ、ご飯できたけど、食べない?」
「……ありがと。でも、いらない」
アスカは鞄を持って勢いよく立ち上がった。ドアを開けると、エプロン姿のヒカリがお盆にカレーライスとコンソメスープと野菜サラダと紅茶を乗せて立っていた。アスカは一瞬動揺した。まさか部屋に運んできてくれたとは思わなかったのだ。
「あ、帰るつもりだったの?」
「うん。でも、ヒカリがせっかくここまで持ってきてくれたから、やっぱり食べてく」
ヒカリははにかんで、部屋の明かりをつけた。アスカはまたベッドの脇に座った。
「アスカの口に合えばいいけど」
「絶対大丈夫よ。ヒカリ料理うまいもん。あのバカシンジやミサトなんかよりずうっとね」
お盆の上には、1人分しか乗っていない。
「ヒカリの分は?」
「私は後でいいの。みんな帰りが遅いし」
「そっか。じゃ、いただきます」
ヒカリの料理がなんだかいつもより美味しく感じた。それはたぶん――。
「何も訊かないのね」
「え?」
「今日何があったか」
「……アスカが話したくないなら、それでいいと思うの。それに――」
「私のこと思い出してここに来てくれたじゃない」
全く予想もしていない言葉だった。
言葉の意味を理解した瞬間、アスカは慌てて鼻をすすった。
「このカレー、美味しいけど、ちょっと辛いわね」
「そう? じゃあ後で牛乳足しとかないとね」
ヒカリはアスカに逆らわずに、素直に頷いた。
アスカはそのままうつむいて黙々とカレーを口に運び続けた。
「帰るの?」
「うん、夕飯、ごちそうさま」
玄関で靴を履くアスカを、ヒカリが見守っている。
外はもうすっかり真っ暗になっている。街灯や民家の明かりが足元をわずかに照らしていた。
「気をつけてね」
「うん」
靴を履いて、アスカはヒカリを見上げた。
「ヒカリ」
一呼吸置いて一気にまくし立てる。
「この前、『もし、他の人を好きでも、それも彼だもの』なんて言ってたけど、それは間違ってる。だって、ヒカリに想われて好きにならないような男は、そいつの方が頭どうかしてるんだから!」
何か言いかけるヒカリに、
「それだけっ。おやすみ!」と言い捨てて、アスカは玄関のドアから飛び出した。
Die Fortsetzung folgt――以下次号
98/12/2UP
・作者コメント
完結しませんでした。すみません。ヒカリちゃん、いい子すぎ。もうセイシュン大爆発って感じ。くさい内容はマジでやらないと面白くないですからね。アスカとヒカリの対話は、私の心の叫びでもあります(笑)。恥ずかしいったらありゃしない。次こそ完結します。アスカとミサトの対決です。
BGMは坂本龍一のピアノソロアルバム「BTTB」です。これを訊きながら読めば盛り上がること間違いなし(かな?)。