Wo ist die Stelle fur mich?
       
 私の居場所はどこにあるの? <後編>

Presented by Masaki Morimiya


           
Das Vertrauen――信頼、思いの果てに

 マンションのドアの前でアスカは立ち止まった。帰ってきたはいいがいざ入るとなるとためらってしまう。今日の今日でミサトと顔を合わせるのがやっぱり嫌だ。だが、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。制服のポケットから鍵を取り出して、ドアを開ける。靴を脱ぎ捨てて、ダイニングへ向かった。
 シンジ1人がエプロンをつけたまま頬杖をついて椅子に座っていた。テーブルにはサラダや取り皿が並んでいた。アスカに気づくと、
「遅かったじゃない。スープもロールキャベツも冷めちゃったよ」
 いつも通りの気弱な喋りに、少し非難を込めてシンジは立ち上がった。
「ヒカリのとこで食べてきたから要らない」
「えーっ、それなら一言連絡くれればよかったのに……」
 帰りの遅い夫を責める専業主婦のように、シンジがすねる。
「ミサトは?」
「ミサトさんはちょっと遅くなるから先にご飯食べてくれって連絡があったよ」
 シンジはミネストローネとロールキャベツの鍋に火をかけて、アスカに背中を向けたまま、ぼそぼそと呟く。
「せっかくアスカの好きなミネストローネ、作ったのに……」
「うっさいわね、ぐちぐちと」
 アスカは椅子に座って鞄を床に置いた。
「せっかくアスカの好きなサウザンドレッシング付きのサラダも作ったのに……」
「アンタ、私を太らせたいの?」
「せっかくアスカの好きなロールキャベツも作ったのに……」シンジはやめない。
「分かったわよ。食べればいいんでしょ、食べれば」
 これ以上ぐちぐち言われてはたまらない。アスカは降参した。
「それにしても、よくまあ私の好きなものばっかり作ったものね」
「うん、ミサトさんが……あっ」
 シンジは慌てて口元を押さえたが、アスカが聞き逃すわけがない。アスカは即座に立ち上がり、シンジに詰め寄る。
「ちょっと、ミサトがどうしたって?」
「え、いや、なんでもないんだよ」
「言いなさいよっ」
 アスカはシンジのエプロンを掴んでぐいぐい引っ張る。シンジはなんとか踏ん張って堪える。
「そんなに引っ張った……わあっ」
 堪えきれなくなったシンジが反動でアスカに向かって倒れ込む。咄嗟に壁に手をついて事なきを得たが、頬が触れ合わんばかりに身体が近づいた。一瞬、柔らかい髪がアスカの頬を撫でた。アスカの脳裏に加持とシンジとのキスが甦った。そういえば、こいつともキスしたんだ。記憶がアスカの頬を朱に染め上げた。
「バカシンジ! さっさと離れなさいよ!」
「ご、ごめん」
 シンジは慌てて壁から手を離して後ずさった。
 アスカは椅子に戻って、シンジを睨みつける。
「で、ミサトがどうしたって?」
「それは……」
「言いなさいよっ」
「実は……さっきミサトさんから電話があったときに『アスカの好きなものをつくってあげて』って、言われたんだ。理由は聞かなかったけど」
 シンジが「ミサトさんが」と言いかけた時から予想はしていた。だが、当たっても嬉しくなかった。ミサトがそんなことを言う背景には、加持との一件があるに違いなかった。
(愛されてる女の余裕ってわけ……)
「僕が言っちゃったってこと、ミサトさんには言わないでよ。口止めされてたんだから」
 シンジがため息をつくと同時に、
「ただーいまー」
 玄関の方から、ミサトの声がした。シンジが顔をひきつらせる。アスカは玄関の方を睨みつけた。
「あらー、いい匂いね、シンちゃん。ロールキャベツかな?」
 ぱんぱんに膨らんだ買い物袋と鞄を下げてミサトがダイニングに入ってきて、アスカに微笑みかけた。
「アスカ、もう食べちゃった?」
「……保護者面しないでよ」
 低く唸るような声音がミサトの笑顔を凍らせた。ミサトは即座にアスカが激しい怒りを抱えていることを理解したようだ。ミサトは黙ってアスカの隣の椅子に座った。シンジはただ二人の前に突っ立っている。
 そのまま、しばらくの間重苦しい沈黙がダイニングを支配した。その沈黙を破ったのは、ロールキャベツの鍋が発した「ふしゅ〜、しょわしょわしょわ」という吹き出したスープの音だった。シンジが慌ててロールキャベツとミネストローネを沸騰させている火を消した。
 それをきっかけにミサトがシンジに向かって声をかけた。
「シンちゃん、悪いけど部屋に行ってくれる?」
「あ、はい、分かりました」
 シンジとしては頷くしかない。シンジはエプロンを外してダイニングを出ていった。


「言いたいことがあるんでしょ? 遠慮なくどうぞ」
 ミサトに促されると、アスカは堰を切ったように怒鳴り始めた。
「偽善者! それとも優越感? そうやって私の機嫌を取ろうっていうの?」
「なんのこと?」
「とぼけるんじゃないわよ。シンジが言ったんだから」
 ミサトは顔をしかめて頬杖をついた。アスカが更にたたみかける。
「子供あやすみたいにシンジに私の好きなもの作らせて……アンタにそんなことされたって、ちっとも嬉しくなんかない! 加持さんに愛されてるからって、いい気にならないでよ!……アンタみたいな女、私は大っ嫌いなのよ!」
 アスカは立ち上がってダイニングから出て行こうとした。その背中にミサトが冷静な、けれどもどこか淋しげな声をかけた。
「あなたの目には、私が加持くんに愛されているように見えるのね」
 アスカの足が止まった。振り返ったアスカの片唇が歪んでいた。鼻で嘲笑うようなくすんだ笑みを浮かべて。
「優越感? いい加減にしてよ」
「私はあなたになれるものならなりたいわ」
 アスカを見つめるミサトの目はかすかに濡れていた。睫毛が小刻みに震える。両腕で抱きしめた肩が小さく揺れている。
 アスカはミサトの様子に肩すかしを喰らった。言葉も態度も、アスカの予想を超える反応だった。
「どういう意味よ」
「加持に愛する女がいると信じられて、羨ましい」
 喉の奥から振り絞るようなミサトの告白だった。だが、アスカには全くその意味がつかめなかった。ミサトの告白はなおも続く。うつむいて断片的な言葉を紡ぐ。
「あいつは私といても遠くを見ていた。他に好きな女がいるんならまだいいのに……形のないものに嫉妬して……もう8年よ。忘れたつもりでいたのに、あいつは私の目の前に姿を現した……私の心をかき乱しても、ひょうひょうとした態度を変えない……私に出来たのは平静を装うことだけ……」
 アスカはただその場に立ちつくしていた。ミサトがこんな苦悩をさらしたことなどなかったし、こんな苦悩があるとも思わなかった。ここにいるのは、加持リョウジという男を愛した1人の女だった。
「これ以上は呑まなきゃやってらんないわね」
 ミサトは顔を上げて、立ち上がった。買い物袋とグラスを持って、アスカに微笑みかけた。
「和室の方で、一緒に呑も。たまにはいいじゃない」
「わ、私も?」
「当たり前じゃない。大丈夫、呑んだところで死にはしないから。それにこんな話、素面の奴になんか話せないわよ」
「そんな話、聞きたく……」
 アスカは咳払いして、小声で、
「なくもない」と付け加えた。
 ミサトは声を上げて笑った。


 ミサトはアスカにグラスを手渡して、買い物袋から次から次へと缶を取り出した。ビールだけではない。あんず酒、白桃のリキュール、レモンサワー、ライムハイ、カルアミルク、などの缶が畳に転げ出る。だめ押しにロックアイスの袋が投げ出された。
「あっきれた、何よこの量」
「2人で呑むんだったらこのくらいあってもおかしくないわよ。何にする?」
「……じゃあ、これ」
 アスカは白桃のリキュールを取ると、酌をしようとしたミサトの手を払うようにさっさと自分でグラスに注ぎ入れた。一緒に呑むことにはしたけど、だからってアンタに気を許したなんて思わないでよ、と言わんばかりの態度だ。
 ミサトは苦笑したが何も言わずにビールのプルトップを持ち上げた。ビール好きにはたまらない小気味いい音がする。手酌でグラスに注ぎ込むと、湧き出た泡は上手い具合にコップの縁に収まった。そのままコップを持ち上げて、アスカのグラスに近づける。
「ほら、乾杯」
「何に?」
「加持に振り回されっ放しの女2人に」
 アスカはそっぽを向いたが、逆らわずにミサトのグラスにグラスの縁を軽く当てた。澄んだ音とともに、お互いグラスに口を付ける。ミサトは一気に飲み干すが、アスカはさすがに一口二口呑んで顔をしかめた。
「あんまり甘くない」
「結構きついもの、それ」
「平気よ、別に」
 アスカはムキになって、ピンク色の液体を更にあおる。喉が一瞬焼けて、胃にまで染み込む。その熱が逆流して頬や頭にまで広がった。ミサトが手を叩いた。
「いい呑みっぷりじゃない」
 なんだか頬が熱い。頭がぼんやりする。でも、嫌な気分じゃない。
「……加持さんともよく呑んだの?」
「ええ、学生の頃はちょくちょくね。私の方が強いから、彼を担いで帰ったこともあったわ」
 アスカはミサトにグラスを突き出した。ミサトは頷いてグラスにカルアミルクを注いだ。一口飲み込んで、アスカがミサトを睨み付けた。
「最初っから出しなさいよ。こっちの方がおいしいじゃない」
「あなたが自分で選んだんでしょ」
「うっさいわね」
 耳やうなじまで赤く染めてアスカは口当たりのいいコーヒー牛乳もどきをくいくいとあおった。
「あんまり無理しちゃ駄目よ。それ、ナンパの小道具なんだから」
「なにそれ」
「口当たりがいいから男がナンパするとき女の子によく呑ませるの。その後はもう『いただきます』なんだから」
「サイッテー……そんな男」
「そんなこと言っちゃっていいの?」ミサトはビールをあおって長いため息をついた。
 いつものように頭が回転しない。ミサトの言葉の裏が読むのに大分時間がかかった。
「……加持さんがそうだったって言うの」
「そこまで露骨じゃないけどね」
「大人って汚い」
 言葉こそきついが、口調も表情もそれ程嫌悪を表していなかった。アルコールで思考力が鈍っていることもあるのかもしれない。
「そうかもね」
 アスカはさらにカルアミルクを注ぎ足して呑み干した。そしてぽつりと、

「……セックスってそんなにいいものなの」と呟いた。


 ミサトは危うくグラスを落とすところだった。アスカからそんな質問が出るとは思ってもみなかった。素面なら死んでも口にしないだろう。言葉を選びつつミサトはゆっくりと答えた。
「相手と状況次第、かな」
「それじゃ答えになってないわよ。加持さんとはどうだったのよ」
 やっぱりそう来たか。ミサトは頭を抱えたくなったが、ここまで来たらしょうがない。
「良かったときもあった。そうじゃないときも、ね」
「どういうときは良くて、どういうときはそうじゃなかったのよ」
 酔っていてもアスカの詰問は情け容赦がない。ミサトはほろ酔いの頭をフル回転させて詰問に応じた。
「最初の頃は気持ちよくて楽しくてしょうがなかったわよ。1週間してても飽きないくらいね。でも、途中でふと気がついたの。どうして私はこの人をこんなに求めずにはいられないのかって。私は彼を求めていたんじゃない、彼が私を求めてくれることを求めていたんだって。そう気がついてから彼を見たら……彼もまた私でなく別の何かを求めていたことに気がついてしまったのよ」
「何かって何よ」
「はっきりは分からない……でも、今になってようやく推測できるようになった」
「だから何なのよ」
「あえて言うなら、『真実』」
「何よそれ。全然分かんないじゃない」
「だから分からないって言ったでしょ」
 アスカは頬を膨らませてミサトを睨み付けた。しかし、その目線はアルコールで潤んでいるせいかいつもより柔らかい。
「セックスの何がいいって……触れ合えるのがいいのよ」
「触れ合う?」
「そう。触れ合って子供に戻るの。そうでもしなきゃ大人は子供になれない」
 アスカが首を傾げてミサトを見やる。ミサトは微笑んで、アスカの手を取った。骨格はしっかりしているがまだ大人の女性の手とは言い難い柔らかい小さな手。
「な、なにするのよこの変態!」
 アスカは慌ててミサトの手を振りほどいた。
「大丈夫よ、私、あなたとしようなんて気、ないから」
 ミサトはからからと笑ってまたビールを飲み干した。そして、もう一度アスカの手を取る。今度はアスカも逆らわなかった。互いの体温が手の平を通じて流れ込む。ミサトの指がしっかりとアスカの手の甲を支える。握られるままだったアスカの指がミサトの手を握り返す。

「……手をつないだのなんて、何年ぶりだろう」


 ママのお葬式の日。親戚の人に手を取られて火葬場へ行ったあの日。あの日から、強くなること、大人になること、それだけを目指して生きてきた。ただただ前へ前へ進んでいた。でも……。
 気がつくと頬を熱いものが伝っていた。それが涙だということに気づくのに時間がかかった。
(どうしてこんなものが出るの?)
 どうしてなのかは自分でもよく分からない。ただ、たまらなく気持ちがいい。しゃくり上げる自分の嗚咽が優しく耳に響く。
 ミサトが手を離した。失望がアスカの心をよぎった。ミサトは立ち上がってどこかへ行く。涙で霞んで見えない。
 すぐに頭の上に何か柔らかいものが降ってきた。タオルケットだった。ミサトはアスカの横に滑り込み、今度は肩を抱いた。
 アスカの嗚咽が再び大きくなった。タオルケットとミサトの腕の暖かさが身体に染み込んだ。
 時折ミサトが何か囁きかけてきたが、何を言っているのかよく分からなかった。ただ聴いていた。遠い昔に聴いた子守歌のように。


 明け方近くに、シンジは足音を殺して台所に向かった。昨夜のアスカとミサトの大喧嘩のあおりを食って、夕飯抜きだったのだ。我慢して一度は寝たが、空腹に耐えかねて目が覚めてしまった。
 台所には煌々と明かりがついていたが、2人の姿はなかった。どうなったか気になるところだが、とりあえず食事が先だ。シンジはわき目もふらず冷えたロールキャベツやミネストローネ、サラダや食パンを平らげた。
 食事を終えて一息つくと、和室に続く襖が少し開いているのに気づいた。シンジはそっと襖を開いた。危うく声を上げそうになった。
 部屋中に充満したアルコール臭。至る所に転がったビールやカクテルの缶。中身がこぼれているのもある。そして部屋の中央にはアスカとミサトが寄り添うようにして眠っていた。
(どういうことなんだろう?)
 昨夜あれほど激していたアスカが、なぜミサトの横で穏やかに眠っているのかシンジにはさっぱり理解できなかった。
 とりあえずシンジはミサトの横で丸まっているタオルケットを広げて2人にかけた。
 何があったかはさっぱり分からないが、何かあったということは分かった。そして、今のシンジに他に分かることは、
(この部屋の片づけ、僕がやらされるんだろうな)ということだけだった。

  Das gluckliche Ende
                               1999/5/19

・作者コメント
 遅くなりました。ようやく完結です。いったん中断したものを再開させるのに時間がかかってしまいました。内容は……なまじな18禁よりかえって恥ずかしい代物になってしまいました(笑)。感想下さいませ。

・追記(01/03/17)
日付に注目です。送ったつもりで、2年近くも送ってなかったのです。
ねこさん、はとさん、ごめんです。
改めて読み返すとはずかしーので、そのまま送ります。



遂に完結ですね(笑)森宮さんお疲れ様でした(管理人)