死体と一緒に閉じ込められて4日が過ぎていた。
真っ暗な中に強烈なアンモニア臭が立ち込めている。
目が染みるような強烈な匂いは日一日と強くなってくる。
3体ある死体が身につけていた食料と水は後何日もつか・・・
「しかし、この強烈な匂いのおかげで発狂しないですんでいるようなものだな。」
取り止めの無い思考の中で、何回目かの同じ台詞を口にする。
敵と、味方と、どちらが先に生存に気がつくか。
生死はそこに懸かっている事は重々分かっていたが、合図の送りようも無かった。
こんな時、テレビの諜報員なら、プラスチック爆弾などをかかとから取り出して
ドアをふっ飛ばす所だが、そんな物を持ち歩くやつやつはいない。
同時に潜行した、顔も知らない仲間だけが生きてかえるチャンスを握っている。
そいつが自分より先に死んでいれば一巻の終りだ。
目的の古文書のコピーは自分が持っている。そのことは「ジョイント」に伝えてある。
それを仲間から確認し、確保が重要となれば「古文書のついでに」救出される。
諜報員の位置づけはこんなものだ。
第10話:それぞれの戦い
ぴちゃん
水の音だ。外で雨でも降ったのだろうか。
ガバッとおきあがり壁を撫で回しながら必死で進む。
ぴちゃん
再び響く雨垂れの音。
ここだ。このひびから水が垂れて来て落ちている。
口を開けて天井にむけて転がる。
口の中に雨垂れが落ちる。
甘い。
起重機のエンジン音が振動と一緒にかすかに伝わってきた。
これはその為にできたひびから落ちてきた水滴らしい。
なんとか、命がつながったのかもしれない。
「15日間、よく露命を繋げたものだな。」
「よくよく、運が強いらしくてね。」
干からびたトカゲの開きの様になって「救出」されたのはそれからたっぷり丸一日後。
「アルバイトは、もう今回限りにしてもらうよ。」
加持は「ジョイント」にそう言った。
「女ができたって?しかもあの、」
「関係ない。」
言葉を遮る。しかし彼の次の台詞はわかっていた。
「なにか、新しい情報がつかめたら連絡してくれ。なに、自分で動かなくてもいい仕事もある。」
「なにもないよ。」
「君のようなA級エージェントは得難いんだ。頼むよ。」
・・・泥沼だな。こいつらは利用価値のある間は俺を離しはしないだろう。
とくに、葛城と同棲しているとなれば・・・。
加持は心の中でひとりごちた。
3日後、フランクフルト。
加持は、尾行を振り切れずにいた。
加持の今の身分は内閣調査室調査課外事連絡員。
一応日本領事館に出入りできる身分であるが、できればどこの所属なのかは伏せておきたい。せっかくまだ知られていない顔である。尾行している連中は地元の組織の連中と思う。
匂いを追っているだけに違いない。しかし、ルーチンワークをこなすだけにしては、しつこすぎる。よほど腕の良いチームがたまたま付いてしまったのか。それとも、知らぬうちに何か自分がらみの情報が流れたか。つまり何らかの捨て石にされてリークされたか。
路地を曲がった所で、前後を塞がれた。
「ちっ。」
舌打ちをしたとたん、後ろの二人が背後を取った。
とっさに、前方の一人を突き飛ばして駆け抜ける。こめかみをこすって弾が飛んでいった。左側の民家に飛び込む。ばらの茂みを構わず突き抜けた。肩に、衝撃が走る。どこかの店の裏手から厨房を突き抜ける。
調理人が叫び声を上げる。店の表から通りに抜け、走ってきたバスにとびのり次の交差点で対向車線のバスに乗り移る。反対側の歩道を数人の男が走り抜けていくのが見えた。
「葛城…。必ず、帰るからな。おまえのところに。」
「葛城調査隊の唯一の生き残りですよ。」
「無理も無い、それだけの地獄を見たんだ。」
「ひどいな。」
「おい、あそこに、緊急脱出用のポッドが!」
「船をつけろ!」
「回収!!」
「中は・・・女の子です!」
「きみ、名前は?」
「葛城・・・ミサト。」
「葛城博士のお嬢さんか?!」
「それでは、葛城さん、あそこで何があったのか、おじさん達に話してくれないか?」
「そうじゃない、それだけじゃないだろう!」
「だから・・・ものすごい爆発が起こって、吹き飛ばされて、白い大きなものが、
穴から手を伸ばして来て・・・。
そこでもう一度爆発が起こって、気がついたら脱出ポッドに入れられてて・・・。」
「だれが、君を、脱出用ポッドに運んだのかな?」
「お父さんだったと思います。」
「わかった。それでは白い大きな物に付いてもうすこしきかせてくれ。」
「たいした情報は得られないな。」
「意識下に潜ってしまった情報というやつもあるだろう。」
「E−スコポラミンとLSD−Fの併用投与は人格崩壊の危険性が。」
「議会対策上な。」
「許される事と許されない事があるだろう。」
「これは、許される事だ!」
「……。」
「まあ、その前に睡眠誘導もしては見るし、他の手段もとる。
その辺で良心とは折り合いをつけろ。」
「葛城調査隊の唯一の生き残りですよ。」
「無理も無い、それだけの地獄を見たんだ。」
「ひどいな。」
跳ね起きる。ぐっしょりと寝汗をかいている。
「はあ、はあ、はあ、はあ。」
自分の呼吸音だけが部屋の中に反射して跳ね回る。
前には良くこんな事があった。加持と暮らしだしてから2年あまり…いつのまにか忘れていたこんな夢。
夢? 何があったのか、自分が何の夢を見たのか、起きてからは全く憶えてはいない。
ただ、粘りつくような、ひどくいやな気持ちになる夢を見ていた事だけがわかる。
一体自分の過去に何があったと言うのか。
幾重にも厳重にかけられた薬物まで使用された暗示とはなんなのか。
今更そんな物を知りたいとは思わなかったが、自分の胸の中にそんな欠落がぽっかりと
深淵の口を開けていることは一種の怖れも感じるし、不快でもあった。
誰かが自分の一部を、むしり取っていった傷痕。それが身体の外側にも傷を残しているように思える。自分の過去を隠し持つものに対する憎しみを感じる事もある。
「じゃあ、私の今もっている記憶だって、自分の記憶だって誰が保証してくれるのよ…。」
いつのまにか、自分の記憶に手が加えられているかもしれない。いま、こう感じている事でも、ドパミンや、セロトニンやカテコラミンの組み合わせでどうにでも調整できる事は、
この時代は既に広く知られている。さらに前世紀以降発見された山のようなアミン調整物質や反応コントロール物質が、細部の調整までも可能にしている…。
「この記憶だけは自分のもの。間違いなく自分のもの…。そんなものがないのをいつも意識していたら、人間は生きていけないよ。例えそれが疑似イベントであったとしても、いまこの瞬間の演繹を人間は過去のデータに基づいて行っているんだ。いまこの瞬間に感じている事この判断を下す瞬間だけが自分である保証かもしれないけどね。その瞬間は、我思う…とのんびり言っていられた時代と比べ物にならない程短いんだ。」
自分を人間に戻してくれたDr.の口癖。……我思うと思う我ありて我思うと我思う。
「加持…。あんたは、私の自我だったのかな…。わたし、からっぽになっちゃったみたい。」
また、涙が出そうになる。心臓が、苦しい。
「ミサト?」
隣りの部屋との仕切りの襖が開く。リツコが覗き込む。
「どうかしたの?」
なかなか本調子にならないミサトを気遣って、ここしばらくリツコが泊り込んでいる。
「ううん、なんでもない…。」
「ちょっと、何よそのカッコは。ひどい寝汗ねえ。」
暫くごそごそやっていたリツコは、洗面器を抱えて戻ってきた。
中に氷がいっぱい浮いている。
「さ、脱いで。」
「へ?」
「脱ぐのよっ。」
言うなりパジャマをどんどん脱がせ始める。
「きゃあきゃあ。リツコ!えっち!」
「なあにいってんのよ!」
髪の毛を掻き上げさせると、冷水で絞ったタオルで身体を拭く。
額、両耳、首筋、顎下、首周り、背筋、脇の下。脇腹、胸の谷間。乳房の下、腰、下腹部。
時々濯いで冷たさを保ちながら。
「ひゃあううっ!!」
「ほら、にげないっ。」
ごしごしと拭かれていって、身体が乾き始めるとさらさらになる。
「ああ…。きもちいい。」
「でしょ。夏の夜によくおばあちゃんが拭いてくれたわぁ。このあと、うちわであおいでくれてね…。ほら、足も出して。」
リツコは、ミサトの腿や膝の裏や、脹脛も拭いて行く。
「ふにゃ〜ん。」
熱が取れた快感に、くてくての声を出すミサト。
「ほら、少し涼んだら、ショーツも履き替えて、パジャマだしてね。わたしまだ、レポートあるから。じゃ、おやすみ。」
テキパキとシーツと上掛けを取り替えて、汚れ物をまとめて立ち上がって行ってしまう。
下着を替え、パジャマ代わりのTシャツを着る。窓を開けて涼むと、さっきまでの寝苦しさが嘘のように消えてしまう。
隣りの部屋の明かりの中、資料を時々覗き込みながら、リツコがキーボードに指を走らせている。
理知的な、冷たささえ感じる程の、美しい横顔。
研究室は騒がしくて集中できないといって、この部屋に居着いてしまったリツコ。
「ごめんね。リツコ。…ごめんね。」
ミサトは、リツコだけは私の確かなものだ、とその時思った。
この先、私たちの日常が崩壊しても、と。
そして、また日々が流れて行く。
遅い台風が通りすぎた朝。
「ミサト、新聞とミルクとって来て~。」
ベーコンエッグを作りながらリツコが大きな声で頼む。
「はいよ。」
ミサトは、教科書とノートをベルトで縛り上げると、階段を降りて集合郵便ボックスの
新聞を取った。
そしてふと目を上げた。ボロボロのジャケットを着た男がこちらに向かって歩いてくる。
無精ひげ。長く伸びた髪が、無造作に頭の後ろに束ねられている。
「あ…。」
おもわず声を上げる。
「よぉ……。」
恐い顔をするミサト。
「どこほっつき歩いてたのよ。もうあんたの場所なんか無いんだから。」
「おいおい。」
「いまはね、リツコと暮らしてるのよっ!」
「朝帰りの亭主みたいだな…。」
苦笑いをしながら、近づき、頭をぼりぼりと掻く。
「汚いわねっ。早くシャワーで体を洗いなさいよ。臭いわよ。」
「葛城。俺、帰ってきたんだな。」
「あたりまえでしょ。」
「…ただいま。」
ミサトの我慢はそこまでだった。
目が真っ赤になっているのが自分でもわかった。唇が震える。
「おかえりなさい…。」
ゆっくりと、手を伸ばす加持。
持っていた新聞で、その手を思いっきり叩くと、ミサトは身を翻して階段を駆け上がって
いった。
大声で叫ぶ。
「リツコ!リツコ! 馬鹿が帰ってきたわよ!!」
「やれやれ…。」
加持は後を追って、ゆっくりと階段を上がっていった。
第10話:それぞれの戦い :終り
後書に変えて:
もういちど 出来るなら ここに戻って あの姿を
力が尽きても 倒れそうでも 届かなくても また走り出す
見ていてね そして教えて欲しい かぎりない 勇気を
All of my dream 空が別れを告げている
All of my dream こらえきれず ほとばしる想い
もういちど 出来るなら ここに戻って あの姿を
心の翼が 折れて傷つき 嵐が来ても 空へ飛んでいく
見ていてね そして教えて欲しい 果てしない世界を
All of my dream 朝まで星を数えていた
All of my dream あしたからはひとりきりになるの
もういちど 出来るなら ここに戻って あの姿を
強く大きな 音を聞かせて 声が無くても きっと思い出す
見ていてね そして教えて欲しい 終らない 未来を
<もういちど教えて欲しい>
作詞:金子修介 作曲:大谷 幸
歌:ユリアーナ・シャノー
最後の場面にそれぞれの想いが凝縮されています。
読後に暖かなものを感じ、幸せを祈らずにはいられません(家主)