夏の日の思いで2
第3話 グリーンシャワー
憂鬱だ、と純は思った。
鉄丸によるトレーニングが開始して2日目、早くも純の筋肉は悲鳴をあげつつあった。
東京ではこれといったスポーツ一つやったことがなかったというのに、毎日のように
放課後は塾通いという生活スタイルだったというのに・・・・・。
クーラーのない学校では楽しみなはずの水泳の授業を前にしてもなお、気分が晴れない
のだから相当精神的に参っているのだというのが自分でも分かる。
これというのもやはり、力・・・・・・
「こら!」
着替え用のゴムの入ったバスタオルを着用しながらフラダンスを踊る力丸の
後頭部を思いきり殴りつける純。
「いってぇ!何すんだよぉ!」
両手で坊主頭を抱えて振り向く力丸に
「自分のせいで人がこんなに苦悩している横でよくそんな行動に出られるよなぁ!?」
「るっせぇな、いいじゃんか、それで地球が滅びる訳じゃなし!」
この台詞は煩わしい発言をする相手に対してとても便利な言葉であるが、職場で
使うとかなりのリスクが伴うという必殺奥義だ。
が、小学生社会においてはノーリスクハイリターンなので是非とも積極的に活用したい。
ちなみに、『地球が滅びなかったら何してもいいのかよ』というツッコミを
思い付くまで、純はこれから1ヶ月程の時間を要することになるが、それはまた後の話である。
「滅びてたまるかっ、滅びて!ていうか、僕は地球より自分自身の問題の方が今は
よっ・・・・・ぽど気になってるのっ!!」
「・・・・・・・・・うわぁ・・・・・・自己中・・・・・」
ぼそりと呟く力丸に、
「力丸が言うなぁぁぁぁぁぁ!!!!」
教室の中で追い掛け回されながら、チラリと孝次を見ると、目が合った瞬間、
鼻で軽く嘲笑してそっぽを向かれる力丸。
その瞬間に進路を変えて、思いきり一撃ガツン、と右フック!
「ぐあっ!」
「何笑ってんだよ、オメー何様だ?」
こんなことが即時できてしまう力丸に、純は何て苦がない生き方なんだろうと思った。
とにかく、大人っぽい心理的駆け引きとか我慢するとかそういうことが一切ないと
いうのも人としていかがなものかと言う気もしたが、これまでの人生ずっと
こうしてきたんだろうなあ、と思うと何となく納得できたようなできないような、
そんな気がした。
「純、お前さぁ、結構いい体になったじゃん?」
てのひらでパッチンパッチン純の背中を叩いて興味深げに筋肉のつきようを観察する
力丸に、さすがに男同士とはいえ、羞恥の色を見せる純。
「そ、そんなに見ないでよぉ〜」
確かにこっちに来て運動量が増えたのか、体格も何となくではなあるが、養殖モノから
天然モノに変わった、という表現ができるようにはなったのかも知れない。
純はもともとボクサー体型に近いから、という鉄丸の言葉を思い出す。
自分ではあまり自覚はしていなかったが、細いのは事実だ。
しかし同時にしっかりと指摘されてしまったのは、筋肉があまりに細いという事実。
ムキムキになれとは言わないまでも、純の基礎体力は全体的に、格闘技どころか
スポーツをやるにはあまりにも脆弱だというわけだ。
だからこそ何かやっとけよ、と鉄丸は麦茶を飲みながら純に忠告していた。
「恥ずかしがんなよ、はっきり言って、こっち来た時よりうんとカッコ良くなったぜ!」
真っ白い大きな歯を出して、臆面もなくそう言い切る力丸は、周囲にも同意を求める。
クラスの仲のいい男子が口々にその意見に賛同してくれて、
純は嬉しさよりも気恥ずかしさが先行してしまい、無口になってしまった。
「ひゃああああ、冷たい!!」
いつものことだが、シャワーを浴びた途端、一斉に男子の悲鳴が上がる。
どうして特段冷却しているわけでもなく、普通の水道水だというのに、
学校のプールのシャワーはこんなにも冷たいのか。
どうにもこうにも、もしかしたら水源というか貯水タンクに冷蔵装置でも
装備しているんじゃないか、という被害妄想すら招きかねない、それが学校の
プールのシャワー。
設置理由は簡単、きっとこの小学校の校長は病的なサディストで、某所に
仕掛けられた隠し監視カメラで児童が悶絶するさまを録画して、気分転換に
見てはニタリニタリと笑っているに違い無い、そしてそのテープは政治家や
官僚、大手企業社長、医者や弁護士、大学教授などのみで構成された紳士の
秘密クラブで高値で売買されているのだ、と力丸は主張していた。
「いやもう、『ウヒョヒョ、これから水温を更に下げてみたら更にいい表情
しそうですなぁ』とか言われてるんだよ、何かガウン一枚でブランデーグラス
片手のジジイが都内のホテルの最上階スイートで」
「どんな趣味だどんな!」
「いや、変態の趣味は奥が深いと聞く」
「もう、そんな知識ばっかり無駄に仕入れやがって!三角形の面積ひとつ
計算できないような分際で!」
「ふう、お前はまだ世間というものを知らんようだ。あと教室にも監視
カメラがあってだな、『授業中トイレに行けずモジモジする児童』なんかも」
「・・・・・・・・力丸、一度お母さんに診て貰った方が」
「なっ、何を〜っ!?」
と、そんな馬鹿げたやり取りもつかの間、
純も力丸も、肌がきゅっと締まって、降り注ぐ無数の水滴を弾こうとしているのを
感じた。
それから震えながら消毒を行い、いよいよ準備体操。
元気な声が、コンクリートブロックのプールサイドに響き渡る。
さんさんと照りつける太陽が、クラス一同の鳥肌をジリジリと元に戻していく。
「は〜い、それじゃあ、みんな泳ぐわよ〜」
担任教師はワンピースの上からかなり大きめの白いTシャツを着て指示をする。
バシャンバシャンと次々と水面に飛び込むクラスメートたち。
「純、一緒に泳ごうぜ!」
「え〜、力丸、速いもん・・・・」
時々不思議に思うのだが、どうして力丸はこんな体格をしているのに水泳が得意なのだろう。
「いいじゃんいいじゃん!」
バシャン、と水に飛び込むと、純の体は一気に重力から解放される。
それから力任せにぐんぐんクロールで進んでいく、と、自分でもちょっと驚く程の
速度が出てしまったのが、内心ゾクゾクとした喜びがこみあげてきた。
僕、なんかすごいよ今日・・・・・・・。
「ぷあっ!」
水面から顔を出すと、やっぱりビリ。
でも、東京の時みたいにダントツのビリなんかじゃなくって、ほんの2秒程度
遅れただけ。
プーメサイドに上がると、力丸が話し掛けたくてうずうずしている様子で、
顔を向けると、予想どおり堰を切ったように
「すっげぇよ!!どうしちゃったんだよお前、何かすごい速くなってねぇか?」
「そ、そう?」
「ああ、それ、絶対自慢していいって、なあみんな?」
大袈裟なんじゃないかと思えるぐらいの賞賛に、近くにいたクラスメートも
同調する。
「でもビリだったけどね」
「そりゃみんな毎日海で泳いでるもん。でも純もそれに混ざるようになってから、
確実に体力ついてきてると思うぜ!」
「あ、うん・・・・・」
運動能力のことで誉められるなんて、純にとってはこれまでの人生で数える程
しかなかったが、それは母親に成績を誉められることなんかよりずっと嬉しかった。
それが段々自分の中でも自覚として分かってきて、努力っていいもんだな、と
思う純だった。
それからプールの塩素の匂いの付いた体をもう一度シャワーで洗い流す。
やはり鬼のように冷たい。
授業が終わってから教室に戻ると、孝次はもう先に着替えを始めていた。
純のことを意図的に無視しているのはきっと、敵意を彼なりに表現したいのだろう。
どうしてそんなこといちいちいするかなあ、と純は思ったが、そこで口げんかを
してもつまらないので、そのままそれについては触れないことにしておいた。
それから程なくしてから、力丸たちがぞろぞろと戻ってくる。
着替えは男子が教室の前、女子が教室の後ろ。
と、純と孝次が気まずい雰囲気なのに気がついて、力丸は後ろから気配を消して
忍び寄ると、一気に制服の黒い半ズボンとブリーフを一気に足下まで下げた。
「うわあああああああああああ!!!!!!」
よせばいいのに絶叫する孝次に、男子のみならず女子までが注目してしまう。
キャアアアアア、そう叫んで両手で顔を隠す女子たちだが、しっかり指と指の
間から観察しているちゃっかり者揃い。
「ちょっと力丸、可哀想じゃないの!」
そんなことを言いながら抗議する涼子などは、むしろ着替えをしている男子
エリアに近付くという大胆な行動に出てすらいるではないか。
体面を保ちながらこの女は何をしているのであろうか。
それを全て指摘すると、
「なっ・・・・・・誰がそんなの見て喜ぶもんですかっ!
私はただ、イジメはやめなさいって言ってるだけじゃないの!」
「いいから距離をちゃっかりじわじわ縮めてんじゃねぇよ!」
男子たちからゲラゲラと笑いが起こると、涼子はムキになって
、「もう知らない、勝手にそんなことでも言ってれば!」
とくるりと背を向けて立ち去ってしまった。
「おいこら西野、オレの事はほったらかしかよ!」
両手で前を隠しながら抗議する孝次のさまが余りに滑稽でまた爆笑する力丸。
「覚えてろよお前ら・・・・・・絶対痛い目に遭わせてやるからな!」
そういう発言自体が別の意味で痛いと思うのだが、そんなことを言い出したら
この勝負自体がかなり馬鹿馬鹿しいものになってしまうので、余り指摘するのは
避けたいところである。
そんなこんなで放課後。
純は約束どおり、力丸の家に直行すると、とりあえずそこで縄跳を鉄丸の
帰宅まで続けた。
水泳の授業でちょっと体が重いのだが、しかし勝負の日は刻々と迫っているのだ。
と、それからしばらくして、力丸が麦茶の冷えたのを出してくれて一呼吸。
「でもさ、兄貴帰ってくるまで時間あるよなあ、宿題もやっとこうや」
「うん」
「しかし本当に忙しいよなぁ、やること一杯だぜ、俺なんかこれからメシ食って
風呂入ってアニメ見て・・・・・あっ、今日マガジン発売日じゃん、とりあえず
前にコンビニ行って・・・いや、その前に菜園の野菜にホースで水やんないと・・・・
あと今日、母ちゃん帰り遅くなるって電話あったから、何か夕飯作らないと
いけないし、ついでに純の宿題も写してやんないといけないし」
「・・・・・・・・・最後のは何だよ」
とりあえず耳聡く聞き逃さない純だったが、今日に始まったことではないので
さっさと宿題を仕上げておく。
出口のない話をして理屈をこね回して自己満足に浸るなんて不毛な時間の
使い方をしている暇はないのだ。
と、そうこうしているうちに、よっちらよっちらと自転車を漕いで鉄丸が
帰って来た。
「おー、やってるなぁ」
高校の部活で疲れているであろうに、どうしてここまで元気なのか、と
純はその体力に尊敬を覚えたが、とりあえず汗でベトベトになったというので、
ひとっ風呂浴びてくるという。
20分程したら出てくる、と言ったものの、なかなか出てこない鉄丸に
「鉄丸さ・・・・・」
「わっ、何だよお前、今着替えてんのに・・・・・」
生まれたままの肢体を特に隠す訳でもなく笑っている鉄丸の態度に、
純の方が恥ずかしくなってしまう。
湯上がりで、水滴だらけの体をバスタオルでゴシゴシ拭きながら、
最強にした扇風機の前に立って涼みながら
「調子の方はどうなんだ」
と聞いてきた。
しかし、歳の割にはやはり中学生でも通るような顔だちに、最近やっと
脂肪が取れてきた体格はやはり高校生には見えない。
身長はそれ相応にあるのだが、こういうのを恥ずかしがりもしないという
仕種というかメンタリティ自体が高校生ではないのかも知れない。
「兄貴ぃ、ご飯炊けたでぇ、あと風呂入っていい?」
「おー」
力丸はテーブルに食事を並べると、そのまま風呂場に直行した。
純にそのままアドバイスしながら簡単に食事を済ませるものの、
確実に食事の量が以前より減っている。
「試合、近いんですか?」
「ん、ああ、来月にちょっとあるんだよ」
とだけ答えた。
本当はこのことについてあれこれ聞いてみたかったが、彼にとっては多分
初めての試合になるであろうことは分かっているし、あんまりそういうことを
詮索するのも悪いかと思い、そのまま黙っておいた。
二人で庭に出ると、ジーッ、というヤブキリの鳴き声があちこちから聞こえてきだし、
蝙蝠が夜空を飛び交っていた。
力丸が打ち水がてら菜園に水をやっていたので、気温も適度に冷えてきてなかなか
気持ちがいい。
しばらくサンドバッグを殴り続ける純だったが、時折鉄丸の厳しい檄が飛ぶ。
と、それから鉄丸はしげしげと純の体格を観察しながら、
「んあ〜、大分余分な肉は取れてきてんだけど、ちょっとまだね」
「え?」
「いや、まずはここの二の腕な?」
むにっ、とえらい握力で掴まれてびっくりしたが、
「ここがまだちょっとあれだろ。それから腹とかはいいんだけど、
胸の筋肉がなぁ」
取りあえず、腕立て伏せやらサンドバッグなんかで腕力をつけないと
駄目らしいが、しかし純のこれまでの運動量を考えるとそう無茶な
計画も組むわけにもいかず、とりあえずこれからどうしたものかと
考えあぐねる鉄丸。
そんな細かいチェックが終わってから、
「ス、スパーリング!?」
「ん、ああ。実戦も積まないと駄目だろう?」
ごく平然と答える鉄丸。
「グローブ、そこにあるから」
さすがに力丸は16オンスのグローブだが、わくわくしているのか、シャドーも
実に軽やかだ。
「え・・・・・・あの・・・・・・」
「遠慮しなくていいぜ、小学生パンチなんかでどうにかなるような俺じゃねーよ」
ボスンボスン!!!
漆黒のサンドバッグが低い音を立てて揺れる。
バァン!!!
キュッキュッ、とチェーンの擦れる音。
「ん、どうした、しゃがみこんでないで来いって」
「こ、腰が・・・・・・抜けました・・・・・・・」
「ふぅ・・・・・・・・」
座敷から蚊取り線香を持ち込んで、練習が終わったのはもう7時半になっていた。
その座敷では、力丸たちの父親が農作業を終えて横になって、大型テレビで
野球のナイトゲームを見て熱中していた。
傍らにあるのはエビスビールと丹波の黒大豆を茹でて塩をパラッと振った
枝豆で、彼はこれさえあれば御機嫌なのだという。
母親が帰ってきたところで練習終了。
「お疲れ」
鉄丸は笑ってから、氷水で冷やしたタオルを手渡すと、それから純を家まで送ること
にした。
これも一応は配慮だろう。
ひんやりしたパイル地のタオルの感触が、ほてった純のからだの熱を優しく
取り除いてくれる。
しかし、純の表情は疲労困ぱいという以上に落胆で全く生色がない。
「一気に自信なくしちゃいました」
まさか漫画じゃあるまいし、本当に腰が抜けるだなんて思わなかったが、
「う〜ん、でもなあ、力丸相手に一度は倒してる訳じゃん?」
「それは・・・・・まあそうですけど」
それからしばらく会話が途切れる。
「いいんじゃない。まだ始まったばっかじゃん、トレーニング」
「ええ」
「何ていうのかな。純、聞いたぞ力丸から。水泳頑張ったんだって?」
しかしそんな言葉も
「でもどうせビリでしたから」
「純〜〜〜!!!元気出せって!いきなりでびっくりしたんだろう?
こっちも悪かったって」
頭を上から鷲掴みにしてクシヤクシャと髪を乱す鉄丸。
「わわわわっ・・・・・もう・・・・・」
「あのさ、そういうの気にしない方がいいぞ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ」
さすがに結果をこっちも早く求めすぎたか、と反省してみる。
これからどう勇気づけていいものやら、と思ったが、こんなことを言っては
身びいきが過ぎるかも知れないが、とてもあの弟を倒したとは思えないのだ。
しばらくそのまま、道なりに歩くうち、純もやっと気を取り直して
村の水田地帯のあちこちから螢が立ち上ってくるのを見て、純は
「僕、螢って見るの初めてです」
「んん?そうなのか、東京ってのも住みづらいもんだよな」
純はその言葉にしばらく考えてから、
「そうかも知れませんね」
それから、黄緑の光がぱあっと乱舞しながら二人の顔を照らしたり、
耳や肩にまとわりついたりしながらふわふわと弧を描く。
いないところにはいないものだが、ここまでいるとなるとさすがに鬱陶しい
ぐらいだ。
「んっ、急ぐか」
「え?」
「もうすぐ雨みたいだからな」
どうも聞いた話によると、水田の雨蛙の声のペースが速くなると、
ほどなくして雨が降るのだという。
「純、自転車の荷台に乗れ!」
「はい!」
それから大慌てで純の自宅まで送り届けると、そのまま挨拶もそこそこに
鉄丸は自宅に急いで戻った。
話どおり、それから10分もしないうちに雨がざあっと降り始めて、
さすがこっちの人間は違うなと思った。
そういえば、鉄丸はちゃんと濡れずに帰ったのかなあ。
窓の外を眺めると、山も水稲もたっぷりの天の恵みを受けるだけ受けて
いるようで、そんな雨のリズムに耳を傾けていると、次第に眠くなってきた。
渇いた大地がごくごくと、水を飲む音が聞こえるようで、それが随分と
全身に心地よく感じるのだ。
それからもうひと頑張りとばかりに家族と遅い食事を済ませて、今日水泳が
思いのほか良かったという話をしてから、入浴後すぐに眠りについた。
翌朝はきっと、さぞかしシャッキリと透明感のある緑が自分を包んでくれる
だろうとちょっとだけ楽しみにしながら。
(4話に続く)
読み物に戻る