創作ドキュメント花のグローブ
少年チャーリーのボクシング青春記
その一 初試合
196☆年7月夏休みの直前、僕は渋谷から私鉄で郊外へ向かっている。
僕は小杉茶利F高校1年15歳ボクシング部員。 随分変な名前だろ。 チャ
ーリーと読むんだ。 パパとママがつけたんだ。 両親ともハイカラで、派手
好き。 パパは元外交官で弁護士、ママは赤坂の出身、だから自分達の趣味でこ
んな名前を長男の僕につけた。 だけど区役所の戸籍係が日本人らしい名前じ
ゃないと受け付けないと言ったので、無理に漢字を当てたのさ。 昔にもそう
いう人がいて、森鴎外は自分の子供にマリー茉莉、アンヌ杏奴なんてつけたん
だそうだ。 今日は夏休み前の都高校選手権、僕も出場することになってる。
まだ1年生だから僕無理だって言ったんだけど、先輩に度胸をつける為にやれ
といわれ、仕方なく出場の申し込みをしたのだけれど、不安だなあ。 僕は
自分で言うのもおかしいけれど、まあかわいい男の子、美少年ということに
しておこう。 丸顔で顎の先はちょっと細くなっている. だからお盆みたい
な顔じゃないんだよ。目もパッチリ、小さめの口元、女の子にも評判がいい。
電車は空いていた。 11時過ぎ、金曜日だものね。 座席に座っていると隣
に変なおじさんが、僕にピッタリくっついて座ってきた。 僕身体を固くした。
こういうことよくあるんだ。 はじめは当り障りのない話題で話しかけ、その
うちにだんだん、片手がのびてきて僕の大事なところに、僕は凍りつくだけ。
だって未だウブな男の子だもの。 でも今日は大丈夫だ。 ボクシング部員の
バッジを着けているから。 バッジが見えたら、おじさんスット向こうへいっ
ちゃった。 部員バッジが役にたつこともあるのさ。 しかし、都内には怖い
怖い高校があって、そこの奴らにバッジ見られたらかえってやばい。 決闘し
ようなんて言い出されたら大変だ。 ボクシング部員は絶対喧嘩をしちゃいけ
ないんだ。 駅に着いて改札口を出てから、線路沿いの坂道を下っていく。
その先が会場だ。 駅にも道端にも大会の色ずりポスターが貼ってあって、
僕もだんだんその気になってきた。 僕以外にもそれらしい高
校生がグループになって数組歩いていく。 僕はひとりだけ、3時開始だから、
2時間前には来ていろと言われたけれど、遅刻すると厭だから早めに来たんだ。
だから先輩も、クラスメートも見当たらない。 それに校風があってね、これ
見よがしの集団行動皆好きじゃないんだ。 実は僕の通っているF高校は進学
校で、毎年T大へも何人も合格している。 僕も両親からは期待されているけ
れども、どうだろうなあ。 あまり自信はない。 進学校だけれどもスポーツも
盛んで、つまり両方出来なければ駄目なんだ。 野球、サッカー、体操、バスケ
たいていのものはある。 ボクシングはマイナーな方、部員も少ない。 その
方がはやくレギュラーになれるからいいと思って入部したのだけれどね、こん
なに早く試合に出ることになってどうしよう。 入部したのは今年の4月、つ
まり入学直後だけれど、まだ3ヶ月しか経っていない。 無理だと思うでしょ。
でもその前に中学時代、街のジムに通っていたから経験はほぼ1年3ヶ月、だ
から先輩やコーチが出場をきめたわけさ。 もちろん今まではスパーリングま
でで、試合は本当にはじめてなんだ。 会場に着いた。 Dコロシアム、名門
のテニス場だが、コートの中央に仮設リングを作り、まわりのスタンドから試合
を見ることになる。
通用口から入り、控え室へ向かう。 驚いたなあ、なんでこんなに汚いんだろ
う。 僕らの部室より汚い。薄暗いスタンドの下の物置みたいな所、板張りじ
ゃなく、土間になっててそこに筵が敷いてある。 ここが更衣室らしい。 コ
ーチに先輩も何人か、『おお小杉来たか、未だ早いがすぐ着替えて、身体を動か
しておけ』『そうだその前に計量して貰わなくちゃな』役員に連れられて下着だ
けで計量場に行く。 と言ったって隅っこにあるカンカン秤にのるだけだ。
『43.7 モスキート』 あれ随分軽いなあ、もう下の奴いないんじゃないかな
もとの場所にもどって用具を取り出す。 グローブは大会本部が用意した
物を使う。 使いまわしだから、前の選手が外したのがまわってくるまで、グロ
ーブはない。 バンテージを巻いて待つことになる。 試合は体重の軽い級から
だ。 はじめは僕らのモスキート級mosquito weight、
さらにフリー級flea weight ライト・フライ級light fly weightと続いていく。 ひどい名前だよ。
蚊、のみ, 蝿なんだから。そうだ、まだあった。 バンタム級 チャボだっけ
筵の上で下着も脱いで、上半身裸体、ランニングシャツを着て、次はトラン
クス、他の選手もいるし、役員もいる。 ちょっとためらう。『おい早くしろ』
『ハイ』『なんだよ、恥ずかしいのか 誰もおまえのものなんかみてやしないよ』
『・・・・・』 シャツの丈はかなり長く、裾は僕のペニスを隠すぐらいある。
まずシャツを着て次にブリーフを脱ぐ。 前を押さえながらサポーターに足を
通す。 サポーターは身体に直接じゃなく、シャツを挟んで、つまり、僕の大
事なところはシャツの裾でくるまれ、サポーターがその上から押さえるわけだ。
うまくいった。 先輩なんかはもう平気で、僕らの前でも出しっぱなし、ぶら
ぶら見せ付けている。 僕もあんなになるのかなあ。 最後にトランクスに足を
通し、ソックスとシューズを履く。 僕のサイズは24.5小さい方だ。 だ
んだん気分が高揚し、緊張と興奮が入り混じってきた。 すごくトイレに行き
たくなる、しかも何遍も。 出るものは何もない。 それにわりにやりにくい
んだ。 サポーターつけているから、ペニスを引っ張り出すのに往生する。
でもカップを入れたらもうできないんだ。 背中の方、トランクスのベルトの
上にサポーターのベルト部がはみ出している。 皆同じらしい。 ちょっとだ
らしがなく見えるけど、 一番下に、肌に直接触れるようにしない限り仕方が
ないんだ。 シャツがトランクスからはみださなくていいんだ。 それに、サ
ポーター、僕は自前だけれど、あれも高いんで、自分で持っていないで他人に
借りる人もいる。 そうなるとじかに使うの厭じゃない? それにもうひとつ
理由があるんだ。 局部保護のために、カップの着用がルールできまっている。
カップは金属製でサポーターに挟み込んでつけるんだ。 だけどわりに落ちや
すい。 すべるんだよね。 試合中の激しい運動で、だんだんずれてきて、ガ
タンと落ちる。 特に僕みたいに身体が小さくてカップのサイズが合わないと
落ちやすいんだ。 他校の子で、たしか僕と同じモスキートの奴が、新人戦の
試合中おっこどしちゃったのを見たことがある。 もう試合にならなかった。
だんだん僕の番が近づいてくる。 もう逃げ出したい。 胸のあたりがきゅー
っと痛い。 グローブを役員の先生が持ってきた。 14オンス、丸々と大きく
重い。 今日の試合ではヘッドギヤーは使わない。 今後ヘッドギアー着用が
ルールになるらしいけれど、だから危険防止のため、大きな厚みのあるグロー
ブを使うんだ。 だけど重いなあ。 自然にグローブを着けた両手を胸の前で
あわせるような姿勢になってくる。 それに、これまで大勢で使ってきた古グ
ローブ、汗の匂いがひどい。 自分の手まで臭くなりそう。 グローブは洗濯
ができないんだ。 これは剣道の防具も同じで、天日でカラカラに干しあげると
いいのだけれど、どうせやっていないだろう。『おい小杉、お前の番だぞ、しっか
りやれ!』『ハ、ハイ』言葉にならない。出口近くの小椅子に座らせられる。
皆が僕をとりかこむ。そうだ初陣なんだ。 『死ぬ気でやれ!』大きなスポー
ツタオルが頭からかぶせられる。 わあっ これ何だ、すごく汗臭い、折角うち
から自分のタオル持ってきたのに。ママがきれいに洗濯してふかふかに天日乾
しをした、お気に入りの柄入りのタオル、『あ、あの 僕のタオル?』『ああ、
あれ駄目だよ、このタオルはゲンがいいんだ。 これ使ってみんな勝ってきたん
だからな』『・・・・』 僕の名前が呼ばれた.『青コーナー 小杉』『それ行け!
!』皆が僕の肩や背中をピチャピチャ叩く。 2人のセコンドに付き添われ、暗
い控え室から明るいコートに出た。 アンツーカーの地面を歩き、階段を上がる。
ガタガタ震えているのが自分でもわかる。怖いよ、ボクシングなんかやるんじゃ
なかった。 すべり止めのロジンを踏んでからロープをくぐり、青コーナーの
丸椅子に座る。 口をすすぎ、水でぬらしたマウスピースを口に押し込まれる。
合わない、あわててグローブで入れなおし、モグモグさせて上前歯に安定させ
る。 プロ選手なら自分用にピッタリしたものを専門家に作ってもらうのだけれ
ど、僕ら高校生じゃそうはいかない。数も足りないし、部員の共用
だ、他人の口に入ったものなんかいやだけれど、仕方がないや。 赤コーナー
の今日の相手が見えた。 2年生らしい。 色黒で強そうだ。ピカピカ光る
赤のサテンの上下、プロボクサーみたい。 黒っぽいグローブに、シューズも
やはり黒。 凄い表情で僕を睨み付けている。 負けずに僕も睨み返す。 今日
の僕のいでたちは、スクールカラーの濃紫のシャツ、胸には校章のFの花文字
が白く縫い取りされている。 トランクスは白いストライプ入りの濃紺色。
やはり紺色の横筋のはいった白のハイソックスに白っぽいシューズ。 凛々しく
て格好いい。 シャツは身体にピッタリ。 『お前まだ伸び盛りだ
し、まだ新調しなくていいよ 俺のをやるよ』と先輩に言われたけれど、パパ
が買ってくれちゃった。 小杉家の長男が他人の古なんか着るなだってさ。
実はパパは僕がボクシングやるの反対だった。 柔道ならよかったらしい。
F高にも柔道部あったけれど、柔道嫌いなんだ。 だって柔道着臭いんだもの。
でもママが賛成してくれて、うちではママが一番えらいんだ。 出場選手の紹
介アナウンスがあって、とたんに観客から野次、『おーい お坊ちゃんだよ
かわいがってやんな』『かわいこちゃん 待ってました』 レフェリーがポン
と手をたたいて2人をリング中央に呼び寄せる。 試合前の注意。 しかし2
人とも聞いちゃいない。 ただ無言で睨み合う。 『さ 挨拶して』『・・・』
『・・・』無言で両手でお互いのグローブを会わせあい、肩の上まであげて挨拶
する。あいつの脇から腋毛が見え、腋臭がちょっとした。 口のまわりに薄髭
が生えている。大人っぽいやつだ。僕はまだ腋毛が生えてない. 下の毛は生え
てるけど。 顔にだってまだ産毛だけだ。僕は緊張して顔をひきつらせ、相手
はちょっと薄ら笑いを浮かべた。 こいつ慣れてるな。 マウスピースが気に
なる。 それから、サポーターの下が変だ。なんかぬらぬらした感じ、もらし
ちゃったかなあ。 無意識のうちにグローブで股間を触る。 コーナーに戻る
と、もう椅子はない。 立ったまま開始を待つ。 ホイッスル、さあいよいよ
だ。 先輩の真似をして、相手コーナーに背を向けて、コーナーロープに両腕
をのせ、グローブに顔を埋める、お祈りみたいだ。 こうしてゴングを待った.
しかしこれが大失敗だった。 カーン、ゴングを聞いてぱっとふりむく。 ア
アーツ、あいつもうそばまで来ている。 なんて早いんだ。 僕が身構える間
もなく、凄い形相で、バ、バババ、バ、シシ、 シュ 猛烈なフックの連打、
僕も必死で応戦、虚をつかれた。 交錯する両者のパンチ、だけど僕のパンチ
は相手のグローブや二の腕をかすめるだけ、圧倒的な敵の攻勢だ。『コスギー
ファイト がんばれー』クラスメートたちの応援、しかし、僕は打たれるまま、
だんだん棒立ちになる。 バシッと右フックが僕のジョーをとらえる、あうっ
思わずうめく、膝がガクッとなり、身体が前のめりに、『ダウン』レフェリー
の宣告、カウントが始まる.そそんな、倒れてないじゃないか、スタンディン
グダウンをとられた。 スリー、フォー、ファイブ 苦しい、ロープをグローブ
で掴んで、ようやく体勢をたてなおす。 シックス、セブン、エイト やっと
のことでファイティングポーズ、ナイン、ボックス! キュッキュッキュッと
黒いシューズを鳴らしながら、顔をひきしめ上体を左右に振ってあいつが突進
してくる。 僕のガードを振り払い、右ストレートが僕の顔面に命中、むふっ
また苦悶する僕のうめき声、鼻の下を生ぬるいものが流れた.口の中にはすっ
ぱい味が。 鼻血だ。 実は僕は鼻血を出しやすい。 スパーリングでさえ随
分鼻血を吹いた。 だからたいした痛手ではないのだけれど、今のは酷いみた
い。 激しい出血、鮮血がポタポタと落ち、白いシューズを赤く染める。『よ
うよう かわい子チャンがんばれ』『まだまだ もっと痛めつけろ』無責任な
野次が。 必死で打撃に耐える僕、相手にむしゃぶりつき身体をあづける。
クリンチのつもりだが、ホールド、ホールドの野次が。 レフェリーが引き離
そうとするが、2人は組み合ったままロープぎわへ。 相手をロープに押し付
ける。『うふ・・・う・・うう・・う・・』うなり、あえぎ、唾液が飛ぶ。
ロープのきしみ、肉体のぶっつかりあう音。 ロープぎわの攻防、彼我入れ替
わり、また押し合う。 からみ合う両者、 あいつの肩に僕の血が落ちる。
あと30! それが合図のように2人は離れ、こんどは睨み合い。 彼も苦し
そう。 肩で息をし、顔も苦痛で歪んでいる。 あれ、案外スタミナないな。
打ち疲れてるんだ。 猛然と闘志がわく。 ジャブを連発し、相手がぐらつい
たところでゴング。 1分間のインターバル よろめきながらコーナーへ戻り、
ドサッと椅子に崩れこむ。 セコンドが僕の顔にパッと水を振り掛ける。そう
してトランクスの中に手を入れ手前に引いて、ひとーつ、ふたーつ、深呼吸の合
図だ。 もう一人のセコンドが僕の首筋を手刀でトントンと、これで鼻血が止
まるんだ。 でも早く鼻血拭いてよ。 タオルで僕の鼻をゴシゴシ、痛いなあ、
タオルは真っ赤になった。 ビール瓶が口に突っ込まれ水でうがい、吐き出し
た水も真っ赤になっている。 無理やりレモンの一切れを噛まされる。 スッ
キリする筈が沁みて痛いだけ。 『小杉、落ち着いて行け、相手はスタミナ切
れだ。』『食らいついて、フックで攻めろ』『フ、フアイ・・・ハイ』 セコンド
アウト 2回目 ボックス 今度は初めから相手を見てかまえる。 あいつ今
度は前進してこない。 やっぱり疲れているんだ。 軽くジャブの応酬、じき
に僕はまた鼻血を吹く。 だが敵は徐々に弱っていった。 終了まぎわ、僕の
放った左ストレートが彼の鼻をとらえる。 鼻を押さえながらコーナーへ戻っ
た彼、口をすすぎ吐き出した水は真っ赤だ。 口も切ったらしい。 いよいよ
ラストラウンド 『あと1回2分だけだ。 死に物狂いで戦え!』ゴングが鳴る
と、セコンドが僕の背中をポンと叩いて送り出す。 ぐっと闘志が沸いてくる。 グロー
ブを打ち合わせ自らをはげまし、コーナーを飛び出した. 僕の執拗なフック
攻撃に相手は反撃できない。 やはりあいつも鼻血を出し、両方とも血まみれの
打ち合いとなった。 僕もフラフラ、あいつもフラフラ、最後は気力だけの勝負
となった。 でも僕が打ち勝った、グロッキーになった相手にフック攻撃、両
腕を振り回し、ボカボカぶん殴る。 敵は激しい出血、それを見て僕はすごく
エキサイト、『こ、この、 この、この、 コノヤロー』汚い言葉が口を突いて
でる。 場内騒然、『コスギー いいぞ ぶっ倒せ』声援にいよいよ興奮して
もうめちゃめちゃに殴りつけた。 ワーッという喚声と拍手に、夢中の僕はハッと我に返る。
あれつ、あいつがキャンバスに横倒しになり体をくの字に
曲げて、顔を僕の方に向け、肩で苦しそうに息をして。 血だらけのマウスピ
ースが口元に転がっている。 鼻血がキャンバスに小さなシミを。 僕は呆然
と立ち尽くすだけ 『小杉!早くニュートラルコーナーへ戻れ』はっと気がつ
いた僕は小走りにコーナーへ、だけどけつまづいちゃった。 もう足にきてる
んだ。 ロープを伝いながら必死でニュートラルコーナーへ スリー、フォー、
ファイブ あいつは身悶えして立とうとする。 ぐるりと身体を一回転させ、
グローブをキャンバスにたて、頭はキャンバスに伏せたまま、腰をあげて、立
てるかな? 突き上げた腰のトランクスの裾から、サポーターがのぞいている。
シックス、セブン、エイト でもここまでだった。 力なく崩れ、そのままカ
ウントアウト。 勝った! ノックアウトで。 初回あんなに僕を痛めつけた
彼が僕の足元に横たわっている.しかも、血を流して。 レフェリーが僕を呼
び、グローブを着けた手を高々とあげる。 やったー 思わず見せるガッツポー
ズ でもこれやっちゃいけないんだ。 後でうんと怒られた。コーチからも、
役員の先生からも。 この後、相手コーナーへ行って挨拶する、『有難うござい
ました!』 グローブの手を出して相手の手と。だけど、あいつ手は出したけ
ど、目をそらした。 その気持ち判るよ、勝つと思ってたんだろ。 悔しいだろ
うな。 そのまま控え室へ戻る。 いっぱい来ている。先輩、クラスメート、そ
して・・・ 『おい小杉 よくやったな、初陣の功名だ!』大好きなS先輩の姿
が見えた。 『小杉 おめでとう よくやったな』とたんに涙が溢れてきた。
『先輩、僕 僕 勝ったー』 先輩に抱き着いて泣きじゃくる僕、『泣くなよ、
勝ったんだろ、喜べよ』そんなことできないよ。 先輩の胸に抱きついてただ
泣くだけ。 その僕を皆がピシャピシャたたく。『おい小杉、泣いてもいいけど
な、そんなにひっつくな。 シャツが汚れちゃうよ』そうだ、まだ鼻血が止まっ
てなかったんだ。 それから、勝利の興奮から醒めて、みんないなくなった。
ユニフォームを脱ぎ、着かえる。 裸体になると、腋の下から、ぷーんと僕の
体臭が。ソックスからもシューズの蒸れた匂いが立ち上る。 そうだシャワー浴
びたいな。サポーターひとつで、着替えを持って、 シャワールームへ行く。
行って驚いた、エーッこれがシャワールーム? なんにもない空間に水道栓が
2,3本それだけだ。 脱衣場もない。 仕方がないから、サポーターをつけ
たまま、シャワールームに入る。 だって、しょうがないだろ。 サポータ
ーを外してシャワーを浴びようとして気がついた。 さっきも気がついたけれ
ど、サポーターの下がおかしい。 サポーターの下の僕のペニス、変に濡れて
いて、サポーターをはずしたら、粘液が糸をひいた。 それから僕の下の毛、
どうにか生えそろった黒い茂みにも何かバリバリこびりついて、あれ、おかしい
な。 殴り合いをやると、慣れない若いボクサーはオシッコを漏らすと聞いた
けど、僕もやっちゃったのかなあ。 でも、これオシッコじゃないよ。 匂いが
違う。 何だろう。 気分的には、さっき殴り合いを必死にやっていた時の感
覚に似ている。 僕はこの時はじめて少年の性行動の一端に気がついたのだっ
た。 シャワールームを出て、偶然鏡を見た。わあ酷い! いささか自慢の僕
の顔、かわいい顔がめちゃくちゃ。 眼の下は青黒く腫れ上がり、かわいかった
唇も無残に変形して、鼻のまわにも血の跡、もう駄目だ、女の子からは相手に
して貰えない。 チキショーやりやがったな。 でも、控え室に戻ると、様子
は違っていた。また、 いっぱい人がいて、みんな僕のことを誉める。『やあ
君よかったよ、すごいファイトだな』『こんなかわいい、おとなしそうな子が、
あれほどやるなんてねえ』『おい小杉といったな、我がF高の誉れだ!』 よ
く言うよ、負けたらはなもひっかけないくせに。『そうだ、小杉、お前のオヤ
ジとオフクロ見に来てたのか』『え、あの、パ・・・』あわてて言葉を飲み込ん
だ。 危ない危ない、ここではパパ、ママは禁句なんだ。 だけど、オヤジと
かオフクロなんて言えないよ. だって15年間言ってないのだもの。 あら
たまった時は父親、母親ということにしている。 でもうちでは、相変わらず
パパにママなんだ。 みんなに誉められて、 とても気持ちがいい。 何かえ
らくなったみたい。 僕はそんなにできない方じゃないけど、 成績はまあまあ
ぐらいだ。 得意なのは、国語、社会、英語。 理科と数学は、苦手だなあ。
期末試験と中間試験つまり1年に4回あるのだけれど、その都度、成績優秀者
上位20人が事務所前に貼り出される。 でも僕はいつも対象外、パパ、ママ
はいつもがっかりしている。 こっそり事務のおじサンにきいたら、これは違反
だよ、 23番か24番だってさ。 もうちょっとなのだけどなあ。 控え室で
休んでいる間、いろいろ言われた。 『なあ 小杉 あんなに下から構えちゃ駄目
だ。 そうだよなあ、お前みたいに顔に自信のある奴はどうしても
顔を大事にする。 本当はもっと身体を起こして、ダッキングで逃げなければ
駄目だ これが欧州スタイルだ よく覚えとけ』『問題はパンチ力だな、それに
打たれ強くならなきゃあ』
少し落ち着いたので、制服に着替えスタンドに上がっていった。
おお、あの子が来たぞ。なかなか評判がいい。 クラスメートを見つけ
て、いっしょに観戦した。 ちょうどライト級の試合、このくらいの重量級に
なると、パンチはすごい。 一発あたれば、バタッと倒れる。 全試合のうち、
半分くらいがノックアウトで決まった。 僕らの軽量級とはわけが違う。 怖く
なってきた。 僕はまだ15歳、しかし、16.17、18歳になったらウエ
ートはどうなるんだろう。 フェザー級やライト級はいやだよ。 もう帰ろう
と思って、(明日もあるからね)出口まで行くと呼び止められた。『小杉くんだ
ろ』『はあ』『さっきの試合よかったな ファイトもあるし よく練習してるな
成績もいいんだってな』 『有難うございます でもなんでわかるんですか?』
『足をみればわかるさ どうだいウチへ来ないか 歓迎するよ』『・・・』
『俺はR大のMだ、こんどの土曜日だけどな、R大の道場に来てみないか 俺いつ
も行ってるから そこでいっちょう揉んでやるよ』わあ えらいことになっち
ゃった、この人R大ボクシング部の先輩らしい。 どうしよう。 これから、
僕の新しい人生体験が始まるのです。 でもこの日はそのまま家に帰った。
明日があるし。 今日の夕食、ママは何をご馳走してくれるかな。
(その二に続く)